1995年は、カール・マルクスの盟友フリードリヒ・エンゲルスの没後100年である。かつてなら国内外で様々な記念出版物が出たところだが、今回はやはり寂しい。本書と日本共産党系の出版物ぐらいのようだ。本書巻末で杉原四郎がトレースするように、エンゲルス生誕150年、『反デューリング論』100年の時にも様々な記念出版があった。その当時に比べれば、東欧革命・ソ連崩壊をくぐったわが国マルクス主義研究の沈没・様変わりは、かくしようもない。本書は、その流れに敢えて棹さし、600頁を費やして真正面からエンゲルスとマルクス主義を再考する。
そもそもエンゲルスはマルクス主義者であったかーー本書の問いかけを要約すると、こう読める。終章杉原論文がトレースした日本の研究史を政治的文脈におき換えると、マルクスの盟友、「第2バイオリン」としてのエンゲルス紹介、ロシア革命後のレーニン、スターリンに祖述されたマルクス・エンゲルス一体説、スターリン批判に触発されたマルクス・エンゲルスの分業説の流れがあった。
オーケストラになぞらえれば、マルクス作曲、スターリン指揮マルクス・レーニン主義交響楽団のなかでの編曲者エンゲルスの役割は、指揮者と楽団の盛衰に伴って、その歴史的評価が変遷してきた。一体説から分業説への転換のさいには、一方で『国民経済学批判大綱』や『ドイツ・イデオロギー』におけるエンゲルスの先行・主導が、他方で『自然弁証法』や『反デューリング論』でのマルクスからの逸脱ないし単純化が問題にされた。
そのさい基準とされたのは、レーニンやスターリンの解説ではなく「マルクスに帰れ」の視点でエンゲルスを見ることだった。没後百年の本書の総体的印象は、ようやくマルクスの編曲者ないし「第2バイオリン」からも解放された、生身の独奏者としてのエンゲルス研究が本格的にはじまったことである。
とはいえ、思想的出自も専門領域も異なる15人がエンゲルスを論じるのであるから、その独奏者としての位置づけも、バックにマルクスの楽譜を流す手法も、それぞれに異なる。中野徹三、清眞人、田畑稔は哲学から、降旗節雄、桜井毅、江夏美千穂は経済理論に即して、鎌倉孝夫、山口勇、福富正実、河西勝は社会主義論や農業農民問題にひきつけて、古賀秀男、大薮龍介、山内昶、青木孝平は歴史・国家論・人類学・家族論にしぼって、それぞれに本格的論文を寄せている。
評者の観点から特に興味深かったのは、巻頭の中野論文が「マルクスを基準にエンゲルスを評価する立場」からも自由なエンゲルス研究を提唱し論じていること、田畑論文がシュタルケ「フォイエルバッハ論」とエンゲルスを、河西論文が「エンゲルスとヒトラー」と題してヒルファーディングとエンゲルスを、対比して論じている点である。青木論文は、現代フェミニズム批判をも射程に入れてエンゲルスとマルクスの家族論の異同を論じており、痛快である。
杉原論文も触れているが、エンゲルスの政治論・軍事論や自然科学論についての論稿、特に晩年のエンゲルスの「政治的遺言」問題を論じた論文がないのは寂しい。しかしこれが、かつては対立・反目しあっていた諸学派を含む現時点での日本マルクス主義研究の総力を挙げた成果なのだろう。研究史的にはオリジナルで批判的な学術論文がそろって、没後記念としては異色の論集となっている。
(毎日新聞社『エコノミスト』に発表)