2003年4月26日現代史研究会での講演記録で、そのテープ起こし原稿が『情況』2003年6月号「『帝国』を読む」に掲載されたものである。


マルチチュードは国境を越えるか?

──ネグリ=ハート『帝国』を政治学から読む

 

 

加藤哲郎(一橋大学教員・政治学)

 

 


 今日は、政治学の方から、ネグリ=ハートの『帝国』について話をしてくれということです。参考資料を三つ用意しました。二つの活字資料は、私が最近『エコノミスト』(毎日新聞社)に書いた論文です。グローバリゼーションの問題がいまどう論じられているのか、そのなかでネグリ=ハート『帝国』はどう位置づけられるかについて、「現代資本主義を読み解くブックガイド」(2002年11月26日号)に書いています。もうひとつの「反ダボス会議のグローバリズム」(2003年5月14日号)では、9.11以降高揚した世界の反戦平和運動を意識して、「世界経済フォーラム(WEF、ダボス会議)」に対抗する「世界社会フォーラム(WSF、ポルトアレグレ会議)」などグローバルな社会運動の意味を論じています。ネグリ=ハートの言う「マルチチュード」をどう考えるかがポイントです。第三に、「ネグリ=ハート『帝国』を読む」というメモを用意しました。「帝国」と「マルチチュード」を概観したうえで、「思想史的・学説史的に読む」「マルクス主義との接点から読む」「政治学的に読む」「9.11以降のバックラッシュから読む」と、考えられる論点を列挙しておきました。このメモをもとにして、主として政治学に関わる問題を述べようと思います。

 

 ボーダーレス経済、ボーダーフル政治

 

 まずは、私のネグリ=ハート『帝国』との距離からお話ししましょう。現代世界についての私の基本的認識は、「ボーダーレス・エコノミー下のボーダーフル・ポリティクス」というものです。これは、政治学者のほとんどがそうだと思うのですが、経済における「ボーダーレス・エコノミー」は、とりわけ冷戦崩壊以降、グローバリゼーションとして進んでいるけれども、現実政治の方は相変わらず「ボーダーフル」、つまり国境だらけだ、という理解です。

 政治学における冷戦崩壊後の国家論で言えば、国民国家の「終焉論」「たそがれ論」「ゆらぎ論」、さらに、むしろ国際関係が再編強化されナショナリズムが台頭したという「再編論」さえあります。「文明の衝突」とか「新しい中世」がそうです。私のスタンスは「ゆらぎ論」あたりですが、ネグリ=ハートは「終焉論」なわけです。

 『帝国』は理論的には大変刺激的で面白いのですが、現実との接点については、疑問を持っています。特に9.11以降の事態の説明能力については、問題が出てきます。これは「帝国」と「帝国主義」の概念の問題とも関連しますが、ネグリ自身、最近のインタビューでは、9.11テロは「帝国」の問題としておこったが、それに対するアメリカの対応は「帝国主義的」で、「帝国」の原理に反する退行的行動だ、「世界市場は戦争を欲しない」などと述べています。たしかにダボス会議で多国籍企業経営者の多くが開戦を危惧したり、国連でフランス、ドイツなどヨーロッパ諸国が米英に反対したのですから、「帝国」風にいえば「第一次世界内戦」(ヴィリリオ)でした。しかし著書では、「帝国」は「悠久な平和」をビルトインしていたはずです。その辺で現実を説明する論理は苦しくなる。それはなぜかという問題です。

 次に、ネグリ=ハートに共感できる点、評価すべき点を言っておきます。情報社会化と情報戦への注目です。この分厚いハーバード大学出版会の英語版『Empire』(2000年)は、すべてインターネットで無料で手に入ります。つまり、彼らの資本による知的所有権に対する批判、「マルチチュード」による「知の再領有」の一つとして、数カ所のサイトで英語の全文PDFファイルが入手できます。書評(これだけでも大きいサイトが3つほどあります)や解説・論評も、英語、ドイツ語、韓国語等々100以上のサイトで簡単に手に入ります。私自身インターネット上に「ネチズン・カレッジ」(http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml)を開いて活動していますから、この姿勢には共鳴します。

 それらの中で、本書の解説として優れているのは、中山元さんのサイト「哲学クロニカル」にある「ネグリ=ハートの『帝国』を読む」で、現代思想の布置状況からみるさいに、役立つと思います。また、書評集のサイトをみますと、一番鋭くラディカルな『帝国』批評だと思われるのは、"Is the emperor wearing clothes?"(「皇帝は裸ではないのか?」)という、既に日本語訳も出ているアナーキスト・サイトのネグリ批判です。

 ネグリについては、「ポスト・マルクス主義者なのかアナーキストなのか」という論点があります。マルクス主義者からはしばしばアナーキストと評されるのですが、書評を書いたアンドリュー・フラッドというアナーキストに言わせると「ネグリはアナーキストではない、レーニンにこだわっている」。これは、国民国家の終焉論とも関係します。その辺の評価を見る上で、このアナーキストの批判が刺激的です。

 アナーキストであるフラッド氏の第一の最も辛辣な批判は、「資格を持った少数だけが理解できるように企図されたエリート主義の学術論文スタイルで書かれている」点です。もちろん労働者階級概念とかレーニン主義評価の批判点もありますが、なぜこの程度のことが、難しい衒学的な言葉、普通の人には分からないポストモダンの言葉で長々と書かれているのか、というのです。学会では「帝国」がある種の知的ファッションになりそうですが、このアナーキスト氏に言わせると、「暇がそれほどない人は、単に序章と間奏曲と最終章を読むだけでよい。全体のページの12%で、その思想の80%が分かるだろう」と書いています(笑)。

 アナーキストのもう一つの批判点で、「その主張の全てについて全く経験的証拠を提示していない」と言います。私も国家論レベルでの問題とともに、論証の仕方に疑問を持っています。今日はマルクス『資本論』と並べるシンポジウムのようですが、『資本論』とは違って、実証的データや歴史的分析が弱い。地域的に言えば、ヨーロッパやアメリカ大陸はある程度出てきますが、アジア、インド、中国、アフリカで何が起こっているのかの言及がほとんどないまま、国民国家は終焉して宙づりにされ、その上に「帝国」という巨大な支配装置・資本機械が生まれている、という捉え方になっています。

 

 20世紀「インターナショナリズム」の経験

 

 実は私は、'89年のベルリンの壁崩壊から'91年ソ連解体のあたりまで、『東欧革命と社会主義』(花伝社、90年)を書いた頃は、「国民国家の終焉」ではないが「たそがれ」「廃絶」論を述べていました。政治学や国際政治学の中では、おそらくもっともラディカルに主張していました。ところがこの十年ほど、廣松渉さんや平田清明さん、伊藤誠さんらと一緒に研究会をしていた期間に、旧ソ連秘密資料を用いた現代史研究に迷い込み、国民国家については「ゆらぎ論」程度、「まだ終わってはいない、『たそがれ』も遠いのではないか」と考えるようになりました。

 その中心的な理由は、昨年出した『国境を越えるユートピア』(平凡社ライブラリー)に書いた通りです。天皇制支配下日本で、ネグリのように急進主義思想・左翼運動に取り憑かれ、日本にいては自由な意思を表現することさえできないから「労働者の祖国」ソ連に渡って国境を越えたつもりでいたら、スターリンにただ日本人であるという理由だけで「日本のスパイ」とされ、密告・逮捕・粛清され、ラーゲリに送られ、殺された人たちを追いかけてきたからです。

 この十年で調べてきたのは、山本懸蔵や国崎定洞など多少知られた人もいますが、多くは無名の労働者たちです。沖縄出身者が多いのですが、例えば1910〜20年代にメキシコやアメリカに仕事を求めて移住し、そこで人種差別に晒され、20年代末に西海岸カリフォルニアで日系人、中国人、朝鮮人、メキシコ人などと一緒に労働運動に加わる。ところが飢餓行進を煽動したとしてアメリカ政府に弾圧され(ロングビーチ事件、1932年)、日本へ帰国すると治安維持法で捕まるので、ソ連に亡命した17人の日本人がいました。しかし亡命後、当時の「プロレタリア・インターナショナリズム」にもとづき日本に通信を送ったり、日本語教師になったりしていた彼らコミュニストたちは、ほぼ全員が粛清されます。樺太や日本海から入った船員、漁民、鉱夫を加えると、おそらく百人近くの日本人が'36〜39年に殺されました。無傷だったのは野坂参三ぐらいです。その犠牲者一人一人の軌跡を追いかけ、資料を探してきました。10人近くについては、ロシア政府への「名誉回復」申請を助け、ご家族・ご親族に命日を伝えたり遺品を渡したりしてきました。

 その資料を探すために世界中をまわり、幾度かモスクワやロスアンジェルス、先週はインドまで行って来たのですが、モスクワの史料館にある旧ソ連秘密資料、KGBの粛清記録を読むと、そこに出てくる「インターナショナリズム」、「労働者の祖国」と呼ばれたソ連邦の実態は、インターナショナルどころか、この上なくボーダーフルでした。'31年満州事変以降になると日本、ドイツは敵国で、その敵国人、或いはそれと接触したロシア人を含めて、膨大な個人ファイルが作られ、監視されている。それが大粛清期に「スパイ」の口実とされ、無実の罪で殺されていくのです。

 ネグリ=ハートの「帝国」は、理論的にあっさりと国境を越え、移民やエクソダス(脱走)を推奨するのですが、20世紀に実際に国境を越えようと思った人々の運命は、リヒアルト・ゾルゲのような場合を含め、悲惨だったのです。もちろんモダニティ(近代性)以前の社会では、国境がなくパスポートやビザもなく交流可能であったとはいえ、歴史的・実証的に見ていくと、『帝国』で理論的に語られているほど簡単ではないと痛感します。むしろ脱出し移住した先で「もうひとつの国民国家の壁」につきあたった悲劇が無数にあるのです。しかも先進国から海外に出るのと、経済的に遅れた国から移民や出稼ぎ労働に出るのでは、移住先での扱いや社会的地位が全然違います。知識人亡命者でさえ、出身国別にコミュニティを作るのです。

 にもかかわらず、ネグリに共鳴する面は、情報革命でインターネットを用いた新しいコミュニケーションが可能になった、国境越えはかつてより容易になってきた、だからボーダーレスな運動が必要で現に起こっている、という認識です。私自身、9.11以降、「イマジン」というポータルサイトを作り、日本の反戦平和運動に情報を提供してきました。「世界社会フォーラム」や「アタック」の運動の広がりで、今年2月15日に行われた全世界1500万人の反戦運動は、社会運動の世界性とボーダーレスなネットワークが生まれてきた証しだと思っています(この点は、加藤「情報戦時代の世界平和運動──非戦のインフォアーツ」『世界』2003年6月臨時増刊号、参照)。しかし、ネグリ=ハートのいうマルチチュードの「エクソダス(脱出・脱走)」が可能になったわけではなく、安易に「移民・脱走」を勧めるべきではない、一つの国境を越えても別の国境が現れるというのが、私の評価です。

 資本は国境を越えた、だから資本に対抗する「マルチチュード」も国境を越えうるというネグリの考え方について、その理論的越境の試みは評価し共感しますし、知的所有権の放棄は私自身書いた論文すべてをインターネットで公開しだれでも読めるようにしていますが(著作権="copy right"ではなく"copy left "手放す運動と言っています)、そのリアリティと効果については、距離を置かなければならないと思います。

 

 「帝国」のハイブリッドな主権と統治構造

 

 以上のような総括的感想の根拠を、『帝国』の内容に即して、政治学からどう読みとるかについて、次にお話します。メモは6つの部分に分かれていますが、(1)「帝国」、(2)「マルチチュード」は、私なりに読みとった『帝国』についての抜き書きです。(3)以下が具体的論点です。

 「帝国」は「帝国主義」ではなく、アメリカ合衆国が支配しているわけでもない。もちろんヒエラルキーの中心にあることは認めていますが、「帝国」自体は「脱領域的で脱中心的」なグローバル権力だと言います。これは、政治学の「帝国」研究史でいうと、かつてデュヴェルジェは「ローマ型帝国」と「中国型帝国」の二類型を語ったのですが、ネグリ=ハートが問題にしているのは「ローマ型帝国」の方です。網野善彦さんが『「日本」とは何か』(講談社)などで問題にされた、日本人にとっては切実な「中国型帝国」の朝貢・柵封体制の方は、視野に入っていません。

 ネグリ=ハートの「帝国」は、脱中心的・脱領土的で脱植民地的なネットワーク型の支配装置で、あらゆる労働への「生政治(bio-political)」的な支配を行っている、とあります。その生産世界では、工場労働からcommunicative労働、cooperativeないしinteractive(協働的・相互活動的)な労働、affective(「情動」と訳されています)な労働、こういう「非物質的労働」が'70年代以降資本主義世界で支配的になり、それが人間の身体や精神まで包摂することによって(ウォーラーステイン風に言えば「万物の商品化」、ハーバーマスなら「生活世界の植民地化」)、それらをフレクシブルに吸収し搾取する可変的で柔軟な資本支配が可能になった、といいます。これは、星野智さんが『アソシエ21ニューズレター』2003年3月号で紹介していますが、ネグリは別の本『未来への回帰』(インパクト出版会)では、端的に「帝国」は「世界市場の政治的形態である」という。つまり、世界市場がボーダーレスでフレクシブルになり、人間の身体・感情の内部に入り込み、「外部」をすべて「内部化する」形がいまや完成した、というわけです。

 政治学的に面白いのは、フーコーのいう「規律訓練(監視)社会」からドゥルーズの「管理・統制社会」("the society of control")へと進んで、そこで「生権力」による「差異の政治」が生まれたとあるのですが、これを政体論に援用して、日本ではあまり紹介されていない歴史家ポリュビオスの「政体循環論」「混合政体論」を使いながら、「帝国」のグローバルでネットワーク的な支配システムを、君主制、貴族制、民主制という統治形態を統合し、ハイブリッドでフレクシブルに使い分けながら成り立っている、と展開する点です。

 例えば核兵器(彼らは「爆弾」と呼びます)は君主制的に、アメリカなど大国に独占的に管理されるが、「貨幣」の管理は貴族制的で、多国籍企業や中小国民国家を含め「元老院」風に接合されている。そればかりか民主制も組み込んで、メディア、宗教団体、社会団体、NGOが「民会」風にネットワーク的・毛細管的に支配される。それらの総体を、フレクシブルに使い分けながら「帝国」は支配している、といいます。また、現代「帝国」のグローバル統治も、それに則した三層構造になっていて、アメリカが頂点にいるのは否めないが、周りに第一階層として、G7、WTO、IMF、世界銀行、国連安保理、国際組織などの君主制組織があり、第二階層に、貴族制風に多国籍企業と200国近い国連加盟国のなかの中小国民国家が接合され、第三階層には、メディアや宗教団体、市民社会組織、NGOが「民会」風に入っている、というわけです。ここではNGOも、中世ドミニコ教団の修道士みたいなもので、抑圧的力=爆弾行使を含む「帝国」支配のネットワークの中で、慈善事業的な露払いをやらされている、つまり支配=システムのなかに組み込まれている、といいます。しかも民主制は、最底辺「マルチチュード」の要求、ネグリらの表現では「欲望」「愛」までも汲み上げる開かれた回路で、「マルチチュード」はそこから自己表現を行う力能も残している、と説明します。

 

 「マルチチュード」と「エクソダス」

 

 そこで、「マルチチュード」です。そもそも「帝国」の存在自体、「マルチチュード」の多様な抵抗や欲求を組み込む形で構成されたもので、「マルチチュード」とは、「帝国」が喚起し生成せしめた応答的主体であったわけです。ただしそれは、マルクス主義が長く変革主体と想定してきた「産業労働者階級」ではなく、マルクスでいえば表象としての「プロレタリアート」、古代の奴隷を投影したイメージです。最下層民衆というところは評価しながら、「産業労働者階級」と一元化・実体化しない。そこに表象されていた具体的で多種多様な差異を含み込んだ多数者(=マルチチュード)として「帝国」に対峙させるわけです。グラムシなら「サバルタン」にあたります。私は、戸坂潤の「多衆」を想い出しました。戸坂は「科学の大衆性」という論文(『イデオロギーの論理学』)で、「多衆」という未組織の即自的主体を「大衆」という対自的・組織的主体に練り上げていく論理を提示しましたが、そこでの戸坂の「多衆=烏合の衆」とイメージが重なります。

 先ほど述べたように、資本の側は、人々の創意性とか欲求・情動をも既に生産に取りこんで商品化し、システムを作り上げているのですが、それに対する「抵抗」の形態として、ネグリ=ハートは「ノマド(遊牧民)的移動」と「エクソダス(脱出・脱走)」を挙げます。その具体的な叙述を見ると、移民労働者です。私が「実証性に問題がある、経験的事実の積み上げによる分析・総合の論理になっていないのではないか」と言ったことの一つは、ネグリは「帝国」を「非・場」"non place"とか「アトピア」(どこにもない場所)と規定するのですが、移民労働者が"non place"だと思ってノマド的に流れて行っても、その先には別な"place"が現れ差別されるというのが、少なくとも20世紀までの現実であり運命で、多くの移民労働者が切実に抱えている問題です。だから「帝国」システムが全体を組み込んだ状況下で「エクソダス」はいかにして可能なのか、「外部的なもの」が次々に「内部化」され、しかも差異に応じてネットワーク支配が行われているシステム内での「エクソダス」とは何であるのか、という問題があります。

 彼らが具体的プロジェクトとしてあげるのは、「グローバル・シチズンシップ」や「社会賃金」です。これは分かりやすいですが、英語のいくつかの書評に書かれているように、極めて貧困です。つまり、「帝国」を導き出す壮大な論理に較べると、「マルチチュード」の具体的な政治綱領は、つつましく不明瞭です。具体的には、例えば「トゥルース・コミッション 真実究明委員会」とか、「マルチチュードの構成的なアセンブリー(assembly集会・組み立て、邦訳では「集まり・議会」)」、「真実の生産のための社会的工場」を造るのだ、と言っています。イタリアやスペインのアナルコ・サンディカリズムや自主管理の伝統からは分からないこともありませんが、そのアセンブリーはいかに構成されるのかは語らない。そうした論理次元だと思います。従って、最後の「抵抗の対抗権力化」とか「反逆を愛のプロジェクトへ」「いかなる権力にも統制されない革命」などという呼びかけも、具体的な形ではイメージできない。

 

 「世界社会フォーラム」への期待と現実

 

 ところがネグリ=ハートは、おそらく『帝国』出版後初めてだと思いますが、二人の連名で、この4月に出た"Another World is Possible"という英語の本に、序文を寄せています。これは、「世界経済フォーラムWorld Economic Forum」、通称ダボス会議(毎年1月末スイスで開かれる世界の資本家、多国籍企業経営者、政府代表者、著名エコノミストの会議)に対抗して、2001年1月から開かれている「世界社会フォーラムWorld Social Forum」(世界のNGO、社会運動、労働組合、左派政治家等々がブラジル・ポルトアレグレに集まる)の第三回大会に向けたメッセージです。「もう一つの世界は可能だ」を合言葉に、この3年で急速に広がった「世界社会フォーラム」の運動を、ネグリ=ハートは、「我々の政治的な羅針盤を定義づける積極的神話になった」「これは新しい民主主義的なコスモポリタニズム、国境を越える反資本主義運動、知的な遊牧民主義の表現であり、マルチチュードの偉大な運動である」と述べて期待しています。私も『東欧革命と社会主義』以来「フォーラム型革命」を主張してきましたから、もちろん高く評価しています。

 彼らの、ダボス会議は毎年一月に寒いスイスの山奥のホテルに籠もって開かれているのに対し、「マルチチュード」は暑いブラジルで熱気を帯びた屋外討論をする、という比喩は面白いですが、3年目を迎えたフォーラムにようやく労働組合が参加してきたと述べつつ、9.11以降「社会民主主義の破綻が明らかになった」と社会民主主義に厳しい批判を浴びせているのは、あまり感心しません。コミンテルン時代の社会ファシズム論に近いロジックも使っています。

 「世界社会フォーラム」については、『エコノミスト』5月14日号に書きましたし、インターネット上に無数の資料があるので、それを参照していただきますが、昨年9月の「ヨーロッパ社会フォーラム」、今年1月初めの「アジア社会フォーラム」と運動をつみあげて、1月末に10万人がポルトアレグレに集まりました。2月には1500万人の世界反戦共同行動を実現しました。しかしその中心は、ネグリ=ハートが「帝国の民会・民主制レベルに組み込まれた」と危惧していたNGOです。大きな反響をよんだノーム・チョムスキーの講演「帝国に抗して」の「帝国」の意味は、ネグリ=ハートの「脱中心帝国」ではなく、「帝国アメリカ」でした。確かに「フォーラム型ネットワーク」として準備され組織されましたが、政党も労働組合も入っています。ドイツ社会民主党(SPD)などは、ダボス会議とポルトアレグレの両方に参加しました。開催地ポルトアレグレは長く労働党市長傘下で市議会でも多数派、ブラジルのルラ新大統領が労働党で、「これからダボスに行ってグローバリゼーションにももう一つのあり方があり得ると宣言してくる」と述べて喝采を浴びました。つまり、政党代表や社会民主主義者も大勢参加しています。ネグリは、あらゆる「代表」を超越論的一元化として問題にしますが、各種議員の「国際議員フォーラム」も設けられました。国際投機規制(トービン税)、福祉や環境、ジェンダー、メディアなど具体的な問題ごとに、膨大な代替案、政策提言が示されています。

 こうした社会運動の大きな波を、もしも「マルチチュードの偉大な運動」というのなら、それはネグリ=ハートの「抵抗=移民、脱出」よりはるかに広く多様な形態を持ち、具体的な要求・政策で組織されています。それは確かにインターネットを駆使したネットワーク型・フォーラム型ですが、ネグリ風の「資本の拒否」だけではないのです。

 また、イラク戦争との関わりで言うと、いやあれは「帝国」の原理に反するアメリカ・ネオコンの退行的「帝国主義」だ、「世界市場は戦争を欲しない」という弁明では、済まないわけです。眼前でこどもたちや女性が犠牲になっている。彼らの言う第二階層の貴族制、つまり多国籍企業や中小国民国家のレベルでも米英軍によるイラク侵攻へ反対する動きがあったことが重要で、君主制の第一階層でも、仏独露中が米英に抵抗する「宮廷革命(?)」が起こり、国連安保理では非常任理事国中間派を経済援助で釣ろうとしたが、そのグループさえアメリカに乗らなかった結果、新決議なしの武力行動に入らざるを得なかったのです、こういう国家間関係が、現実政治ではなお決定的で、世界の平和運動、非戦世論を動かし、人類史で初めての壮大な「宣戦布告前の反戦運動」を可能にしたのです。

 このような意味で、ネグリ=ハートのいう「帝国」は生まれつつあるかもしれないし、「マルチチュード」のボーダーレスな運動も始まっているかもしれないが、現実のダイナミクスは、経済的にはグローバル化が進み「ボーダーレス」でも、「帝国主義」がなお頑強に残されており、政治的には「ボーダーフル・ポリティクス」が様々な形でうごめいています。「マルチチュード」の中にさえ、まだまだ国境が存在しているのが、現段階ではないかと思います。

 

 ラテン系マルクス主義?

 

 最後に、政治学の方から、理論史・学説史レベルの問題を述べておきます。

 ネグリ=ハートをマルクスの方から読む場合、「非物質的生産(inmaterial production)」をどう理解するかが、重要だと思います。ネグリの発想に「使用価値の復権」を見いだすこともできるでしょう。宇仁宏幸さんが『現代思想』2月号の特集で扱っていますが、日本では疎外論・物象化論ばかりでなく、サービス労働論とか情報社会論、IT革命論が長く議論されてきました。ネオ・マルクス主義やポスト・マルクス主義でも、たとえばプーランザスにはホワイトカラーを扱った「新しいプチ・ブルジョアジー」論がありましたし、エリック・オリン・ライトらは、管理労働やサービス労働を階級論の中に組み入れようと試みてきました。そうした労働価値説のややこしい論争をスキップして政治的に読む、つまり『資本論』を政治哲学・政治術として読むところに、ネグリ=ハートの独自性があるのだと思います。

 『帝国』関連の解説・書評を読めば必ず出てくるのは、フーコーとドゥルーズ=ガタリの「生権力」論、およびスピノザに依拠したマルクスの読み替えです。しかし、『帝国』ではあまり引用されず、それら解説にも書かれてないが重要だと思われるのは、アントニオ・グラムシ、アルチュセール、プーランザス、ラクロウ=ムーフら、いわゆる構造主義的マルクス主義からネオ・マルクス主義、ポスト・マルクス主義の流れです。私自身が日本で紹介し辿ってきた道筋ですが、『帝国』を読んでいると「最終審級における決定」や「重層的決定」「接合」が突如出てきて、なつかしくなる。つまり構造主義的マルクス主義用語なわけです。ネグリには、そういう流れが前提にあり、挿入されています。

 特にグラムシは、同じイタリア出身ということを含め、重要だと思います。ヘゲモニー論や「受動的革命」論、「フォーディズムとアメリカニズム」は、ネグリも明示的に使っていますが、国家論や市民社会論、知識人論などは、引用しなくても下敷きになっていると感じます。これだけ浩瀚ですと、名前の出てこない理論や思想がどういう形で採用され批判されているのかが、あるいはどういう流れが無視されているかに注意することも、意外に重要だと思います。

 たとえばヨーロッパの中では、ラテン系マルクス主義として見ることが必要です。カント、ヘーゲル、ウェーバー、ケルゼン、ハーバーマスなどドイツの流れは、マルクスへの部分的批判も含めて、総じて批判的で辛口です。逆にマキアヴェリ、ボーダン、ヴィーコ、スピノザ(ラテン系オランダ国籍のユダヤ人です)らはよく出てきます。「人名索引」を見るとジョリッティ、ジェンティーレ、クローチェも多いですね。アナルコ・サンディカリズムの伝統やアウトノミア運動はネグリの思想的土壌ですから、イタリアにおけるマルクス主義の流入・定着の仕方、クローチェやラブリオーラ、ボルディーガ、現存する思想家ではボッビオとの対抗の中で読むというのも、面白いだろうと思います。

 実証分析とのつながりでは、私がヨーロッパで注目している北欧マルクス主義は、ネグリ=ハートではほとんど出てきません。福祉国家批判も新自由主義批判も英米中心で、現にヨーロッパに定着した福祉国家としての北欧型社会民主主義にどういう距離をとるのかは、ネグリ=ハートの議論からは見えない。ところが「グローバル・シチズンシップ」や「社会賃金」をいうのなら、北欧には接点を持つ理論的蓄積・実践的経験・政策的ヒントが豊富にあるのです。

 

 レギュラシオン理論との関係

 

 世界システム論との関係では、ウォーラーステインが経済学に与えたような衝撃を、ネグリ=ハートは政治学にもたらしたというのが、前回の星野智さんのお話のポイントだと思います。それはウォーラーステインの「資本主義世界システム」に似て、世界政治における単数形の「帝国」ネットワーク主権を主張したという点で、その通りだと思います。

 ただ、私はむしろ、アグリエッタ、リピエッツらのレギュラシオン理論との近似性を感じます。レギュラシオン理論は、賃労働関係から出発しながら、貨幣信用関係、資本間関係、国家形態、世界市場への参入形態を制度的にくぐり循環した上で成立する資本主義を問題にし、かつそれを、労働ノルム・消費ノルムという欲求のあり方、心身の働き、規範・規律のあり方まで含めて理論化していたわけです。しかもそれは、誰かが作為した意識的規制=英語の「レギュレーション」ではなく、自己組織系システムだということで、わざわざフランス語のまま「レギュラシオン」とよんだり、「制御調整」と苦労して訳してきました。「帝国」の支配メカニズムは、この「レギュラシオン」や「労働・消費ノルム」と似ています。ネグリの使う「資本による労働の形式的包摂から実質的包摂へ」というマルクス『グルントリッセ』の論理も、グラムシ経由の「アメリカニズムとフォーディズム」も、レギュラシオンの歴史理論でキー概念でした。

 ネグリが『資本論』の「利潤率の傾向的低下とそれに反対に作用する諸要因」を重視するところは、ネオ・マルクス主義ではヨアヒム・ヒルシュの国家論と近いですが、ヒルシュも後にレギュラシオン理論のフォード主義、ポスト・フォード主義パラダイムを用いて、「安全保障国家」というフーコー風現状規定やグローバル化の中での「国民的競争国家」を論じました。こうしたヨーロッパの議論は、ネグリも当然下敷きにしているでしょう。

 もちろん違うところもあって、レギュラシオン学派は、フォード主義段階の、それもケインズ主義的福祉国家の黄金時代である高度経済成長期に焦点を当て、その成立をテーラー主義からT型フォードの1910-20年代に求め、それを各国別に国民経済的に論じました。それに対して、ネグリ=ハートは、むしろ70年代以降の新自由主義的危機脱出、いわゆるポスト・フォーディズムを主眼にしています。歴史的起源も、アメリカでいえば30年代ニューディール期の大恐慌への対応に見出し、資本の支配が身体論的に深化し、自己組織系が国民経済から地球大に拡がったところに「帝国」のネットワーク・システムを見ます。この意味では、「グローバル・レギュラシオン」を論じているわけです。しかし問題設定と論理構造には、レギュラシオン理論とよく似たところを感じます。

 ただし、レギュラシオン学派がとりわけ注目した日本資本主義は、『帝国』ではトヨタのジャスト・イン・タイムがポスト・フォード主義がらみで簡単にでてくる位で、ネグリ=ハートでは、ほとんど出てきません。世界の工場となった中国も、パソコン・ソフトのグローバル基地インドも素通りしたまま「帝国」が実存しているというのは、あまりに乱暴で説得力に欠きます。

 

 「グローバル・ガバナンス」とのすれちがい

 

 国際政治学でよく使われる、ローカル・ナショナル・リージョナル・グローバルという世界政治の積み上げモデル(レイヤーケーキ・モデルといいます)との関連でいえば、ネグリ=ハートの関心は主権論で、もっぱらナショナルからグローバルへの移行の論理を展開するのですが、政治学・国際政治学が「国民国家のゆらぎ・たそがれ」で注目してきたEU(ヨーロッパ連合)の話が、ほとんど出てきません。現在の15か国から25か国に増加して「国民主権を超える」最も現実的で身近な素材なはずですが、なぜかネグリは関心を示しません。アメリカ大陸のNAFTA、アジアのAPECについても同様です。総じてナショナルとグローバルを媒介する、リージョナルのレベルは無視されています。

 この点では、政治学や国際政治学の学問的展開とは、すれちがっています。政治学でのグローバリゼーションとの理論的格闘は、国際組織論・国際レジーム論から「グローバル・ガバナンス」論というかたちで、展開してきました。「グローバル・ガバナンス」は、「ガバメントなきガバナンス」ともいわれますが、国連や世界銀行は企業やNGOをも組み込もうとし、民衆的立場からはローカルな分権自治をグローバルにつなごうとする、ネグリ=ハート流にいえば「帝国」の主戦場なはずです。しかしネグリ=ハートは一言ふれるのみで、理論的にも分析的にも踏み込みません。「共和主義」に熱中して「連邦制」に無関心なのも、気になるところです。

 彼らが「マルチチュード」とした側面は、新しい社会運動論やNGO・NPO研究をとりいれて、グローバル民主主義論、コスモポリタン・デモクラシー論、グローバル市民社会論などとして、蓄積されてきたものです。私の好きなデーヴィッド・ヘルドらの研究は、日本にも紹介されています(『デモクラシーと世界秩序』NTT出版、など)。これも、ネグリ=ハートは、もっぱらカルチュラル・スタディーズからポスト・コロニアル、サバルタン・スタディーズの系譜を意識的に追いかけてきたようで、EU研究や移民・外国人労働者研究の実証的成果が参照されていないのが残念です。

 結論的に言えば、ネグリ=ハートのいう「帝国」は、資本にとっても民衆にとっても「未完のプロジェクト」であり、かつての「世界政府」や「世界連邦」を裏返して「帝国の出現」を論じ、マルチチュードの「見果てぬ夢」を対置したのですが、その大胆で刺激的な理論操作には感心しながらも、現に進行している戦争に対しては、国連・国際法と「世界社会フォーラム」型運動で対応しなければ、というのが私の立場です。

 もっとも『ニュー・レフト・レビュー』のゴーパル・バラクリシュマンの書評は、現存社会主義と冷戦の崩壊で、しばらくフランシス・フクヤマ、サミュエル・ハンチントン、ブレジンスキーらアメリカ右派に独占されてきた現代世界についての大理論が、ネグリ『帝国』の出現によってようやく左派からも現れた、と評しています。なにしろ近年にない気宇壮大で挑発的な本ですから、メモにも列挙したように、政治学と関わる細かい論点は、まだまだたくさんあります。しかし時間のようですから、一応これで私の問題提起としておきます。(了)


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