以下に掲載するのは、『木鐸』第36号(1986年4月)に掲載されたエッセイである。今回来日したボブ・ジェソップの考え方が紹介され、私の『国家論ルネサンス』(青木書店、1986年)の補足になるものなので、ここに収録する。(1997・12)


ユー口・コーポラティズム論争

 


 筆者は、「マルクス主義国家論ルネサンス」への関心からコーポラティズム論議をフォローしてきたが、その過程で気がかりだったのは、山口定監訳『現代コーポラティズム 氈x(木鐸社)に収録されている二人のネオ・マルクス主義的ネオ・コーポラティズム論者、レオ・パニッチとボブ・ジェソップにおける、コーポラティズム概念の微妙な違いであった。

 それは、社会主義をめざすマルキストの立場から、コーポラティズムをどのように評価すべきかということで、パニッチにとっては「国家に構造化された階級協調のシステム」として打倒の対象でしかないのに対し、ジェソップの場合は「社会民主主義の最高形態」ではあるが「国家諸装置自体の内部での階級闘争の再生産」を導きうる「政治的代表」の一形態として、両義的に評価しうるのである。

 筆者はこれを「ユーロ・コーポラティズム論争」となづけ、ジェソップ、オッフェ、アンデルセンらの「ユーロ・コーポラティズム」論者と、パニッチ、ニューマンらの批判派に区分し、筆者自身は「労働のヘゲモニー下でのコーポラティズム化」の論理的可能性を認める「ユーロ・コーポラティズム」の立場に立つことを明言しておいた(拙著『国家論のルネサンス』、青木書店、1986年、第3草)。

 昨1985年夏の世界政治学会第13回世界大会への出席を機に、エセックス大学に滞在してジェソップと親しく討論することができたが、彼のコーポラティズム理解は、議会主義や多元主義、クライエンティリズムなどとならぷ「政治的代表」の一形態であるから、コーポラティズム概念そのものは、いわば価値中立的ないし両義的で、単純に拒否さるぺきものではない。むしろ、ロシア革命期の「ソビエト」やドイツ革命の「レーテ」に相当する、生産点を基礎にした職能的「政治的代表」形態として、ポジティヴにとらえることさえ可能となる。ジェソップ自身は、生産点からの職能代表に基礎をおく「民主的コーポラティズム」と、地域代表に基礎をおく議会制の民主化との「接合」による、「現存社会主義」とは異なる「民主主義的社会主義」を構想しているようであった。

 そのジェソップが、最近のスチュアート・ホールとの論争論文のなかで、福祉切捨て・失業増大を招くサッチャーリズムの「サプライ・サイド」経済政策を批判するために、左翼による固有の「サプライ・サイド」政策と「民主的コーポラティズム」が対置さるべきだとして、つぎのように述べている(『ニュー・レフト.レヴュー』153号)。

 「コーポラティズムは、左翼によって、疑いなく、拒否さるべきものではない。(何の見返りもない単なる賃銀抑制政策ではなく)ほんものの政治的交換を含む供給誘導的コーポラティズムは、経済民主主義拡大と政治的代表深化のための重要な基礎を提供するであろう。そのようなコーポラティズム的関係は、かつて経験した官僚的コーポラティズムとエリート的三者協議制を再生産するというよりも、むしろ経済的・政治的組織の社会主義的諸形態を予示するにちがいない。
 民主的コーポラティズム(または協調)の発展は、サッチャーリズムによる労働者統制と国有化・中央集権的計画の等置を論駁する助けとなるだろう。自由主義か国家主義かという偽りの選択は拒否され、サンディカリズムと民主的コーポラティズムの思想が、重要な要素として経済管理に導入されなければならない。」

 つまり、「民主主義的社会主義」への不可欠の構成要素として、「民主的コーポラティズム」が設定されている。論敵がパニッチなら、さらに論争的になったであろう。

 実は「マルクス主義国家論ルネサンス」の内部では、パニッチはラルフ・ミリバントのもとでイギリス労働党史を研究した「国家=道具説」の系譜に属し、ジェソップの方は、ニコス・プーランツァスから決定的影響を受けた「国家=関係説」の代表的論者である。したがって、この「ユーロ・コーポラティズム論争」は、かの「ミリバントvsプーランツァス論争」の再版・現状分析編なのである。

 シュミッター、レームブルッフを中心とした「(反)コーポラティスト・インターナショナル」は、リベラリストとマルキストの理論的「対話」の場として注目されているが、同時にそれは、マルキスト内部での方法的「対話」の場でもあるのである。



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