『アエラ・ムック  マルクスがわかる』(朝日新聞社、1999年所収)

 

「マルクスにとって、共産主義社会ははたして究極の目標だったのか」

 

加藤 哲郎


 編集部からの宿題は、マルクスが共産主義社会を究極の目標としたかどうか吟味せよというものである。マルクスの好きな標語は「すべてを疑え」であった。もしも「共産主義」が、二〇世紀に現実に存在したソ連型社会主義や国際共産主義運動を意味するとすれば、答えはノーである。

 だが『共産党宣言』を引くまでもなく、マルクスは繰り返し「共産主義」を語った。それは、何を意味したか? 

 テキストだけを問題にするなら、今日では簡単である。インターネット上にMarx-Engels-Internet-Archiveという原典英訳が収蔵されたホームページがあり、膨大な著作・書簡が網羅されている。『資本論』を含むマルクスの主要文献が一枚に入ったCDも出ている。そこで「Communism」を検索すれば、マルクスの「共産主義」観は、自ずと見えてくる。学生のレポート作りなら、これで十分である。

 インターネットを使わなくても、日本のマルクス翻訳・文献解釈学は、戦前から世界でも特異な高度な発達を遂げている。マルクスや社会主義・共産主義についての無数の解説があり、多数のコメンタールが刊行されてきた。

 最新の『マルクス・カテゴリー事典』では、なぜか「共産主義」だけは二つも項目がたてられ、所有論と運動論の視角から、エンゲルスやレーニンの解説に依らずにマルクスの用法を検討し、「社会的所有」や「アソシエーション」とのつながりで「共産主義社会」を解読している(青木書店、一九九八年)。

 すると、たとえば、『経済学・哲学手稿』第三手稿「私的所有と共産主義」の末尾に「共産主義は否定の否定としての肯定であり、それゆえに人間的な解放と回復との、次の歴史的発展にとっての必然的な、現実的契機である。共産主義はもっとも近い将来の必然的形態であり、エネルギッシュな原理である。しかし共産主義は、そのようなものとして、人間的発展の到達目標ではない」とある。

 だが、ここから「マルクスは共産主義を到達目標として否定した」と答案を書くと、出題者の思う壺である。岩波文庫版には、この箇所に周到な注がある。『経哲手稿』で若きマルクスは、「共産主義」と共に(後に肯定的意味ではほとんど使わない)「社会主義」という概念をも使っており、それは二〇世紀に流布した用法とは大きく異なる。今日でもマルクスは、疑って読むに値する思想家である。

 あらゆるテキストは、歴史とコンテキスト(文脈)のなかで、批判的に検討されなければならない。同じ手稿の少し前の「人間の自己疎外としての私的所有の積極的止揚としての共産主義」以下の言明を見ると、やはりマルクスは共産主義を価値的に志向しているように見える。続く「共産主義は完成した自然主義として人間主義であり、完成した人間主義として自然主義である」という一節は、二〇世紀の地球生態系破壊やエコロジー勃興を予見していたかのようである。そして「歴史の全運動は、共産主義を現実的に生み出す行為であると共に、共産主義の思考する意識にとっては、共産主義の生成を概念的に把握し意識する運動である」と続く。「共産主義」は、私的所有を止揚した必然的な未来社会であると共に、それを形成する現実的な思想・運動でもある、と二重に把握されているようだ。

 この二重性は、以後も引き継がれる。「われわれが共産主義と呼ぶところのものは、現在の状態を止揚する現実の運動である。この運動の諸条件は、今日現存する諸前提から出発する」という『ドイツ・イデオロギー』の言説は、マルクスの主旋律である。

 『ゴータ綱領批判』の「労働そのものが第一の生命欲求」となり「協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧き出るようになった」「共産主義社会のより高度な段階」での「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」という有名な言説からは、未来社会のイメージもかいま見える。だが、こうした「青写真」的表現は、マルクスでは例外的であった。

 問題は、この二重の「共産主義」概念の架橋であった。二〇世紀の自称正統的後継者たちは、その間隙を「プロレタリア独裁」「生産手段国有化」「過渡期」「共産主義の低い段階=社会主義」などの概念で埋め合わせ、それをレーニンとボリシェヴィキの創設した「共産党」「ソ連邦」「中央集権的計画経済」の現実態で具体化しようとした。そうした流れは世紀末を待たずに崩壊し、マルクスも共産主義も一緒に押し流してしまった。

 だが「思想・運動としての共産主義」という主旋律からすれば、マルクスは一九世紀の「現存する諸前提」から出発する以外になかった。「共産主義社会」は『資本論』で抽出した「資本制生産様式」の否定形としてのみ抽象的に語られた。その「諸前提」は、歴史的である。我々は異なる時代にいる。

 マルクス風にいえば、人類史と世紀末世界の構造を批判的に解読し、現実社会の中に、その矛盾する諸契機を見いだすことこそが、二一世紀の「共産主義」にほかならない。橋は現実の側から架けるしかない。それが何とよばれるかはどうでもよい。まことに「すべてを疑え」であり、「学問に平坦な王道はない」のだから。



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