本書は、ホブズボームやハンチントンに代表される二〇世紀論議とはひと味違った、社会運動・政治思想から見た二〇世紀論である。それもそのはず、ホブズボームが「短い二〇世紀=極端の時代」の終点においた八九年東欧革命後に生まれた「フォーラム九〇s」のメンバーたちが、その組織を幕引きするにあたって、九年間の社会運動・思想運動の実験を踏まえて、百年を振り返った実践的「総括」集である。
百年という時間は、一人で生きるには長すぎる。ホブズボームが一九一四ー九一年を「短い二〇世紀」と区切ったのは、多分にロシア革命の年に生まれた自分自身の思想と生涯に区切りをつけたかったからだろう。その伝で言えば、本書に登場する一六人の論者の二〇世紀体験は、長短さまざまである。一九二七年生まれの栗原幸夫から七〇年生まれの田浪亜央江までの幅がある。実は評者も、その老青の橋渡したるべき中=「団塊の世代」の一人として寄稿を求められていたのであるが、在外研究のために断った事情もあり、この書評がまわってきた。
扱う問題は、二〇世紀のすべてではない。第一部「二〇世紀とはどのような時代であったのか」に栗原幸夫(世界戦争・国家・革命)、藤本和貴夫(ロシア革命)、加藤一夫(ナショナリズム)、太田昌国(第三世界)、第二部「民衆運動の過去・現在・未来」に武藤一羊(社会運動)、丸山仁(新しい社会運動)、白川真澄(地域住民運動)、池田祥子(性差)、国富建治(政党)、天野恵一(暴力)、小倉利丸(ネットワーク支配)、田浪亜央江(国際連帯)、柴崎律(障害者運動)、第三部「政治思想の可能性」に今井弘道(国民国家)、斉藤日出治(民主主義)、花崎皐平(エコロジー)が、それぞれに力作を寄せている。ただし、その立脚点も二一世紀への展望もさまざまであり、引用・注で武装した学術論文風もあれば、「私」を主語とした回顧風もあって、執筆スタイルも自由である。つまり、本書の全体が「フォーラム=討論の広場」となっている。
総論的位置を占める栗原幸夫の論稿は、「世界戦争・国家・革命」に「近代社会」を重ね合わせ、二〇世紀を「近代の変質」と「近代の超克」のせめぎあいとして捉えようとしたかに見える。そのせめぎあいを通して見えてきた二一世紀に、評者は注目したい。
そうした視角からは、「私」という一人称で語られた太田昌国「第三世界は死んだ! 第三世界万歳!」が、「解放軍・革命軍」を支持し、連帯し、裏切られてきた体験から、「軍事化してしまっている社会」に対抗する「軍隊なき社会」を構想するにいたるプロセスを率直に語り、印象的だった。同じく一人称で、三好十郎を切り口に、国内「実力闘争」の限界の認識から「非武装思想との連帯」への歩みを語った天野恵一「<暴力>と<非暴力>」と共に、おそらく期せずしてだろうが、最も若い執筆者である田浪亜央江「日本における国際<連帯>運動」が、パレスチナとの関わりを素材に「対象を美化・聖化することの問題」を提起し、「誰の、何に対する連帯だったのか」「今こそ運動経験の共有化を」と問いかけていることへの、一つの回答になっている。
インターネットを多用している評者の視角からすると、小倉利丸「ネットワーク支配と対抗運動」、斉藤日出治「二〇世紀型民主主義を超えて」も刺激的だった。斉藤のラディカル民主主義戦略と蓄積戦略の節合による「新しい公共圏」の構想にはほとんど違和感はなかったが、ネット世界の大先輩で評者もHPをリンクしている小倉の「ネチケット」批判には、考えさせられた。評者は「ネチケット」を、まだ現実世界ほどには権力支配が確立していないバーチャル世界でのネチズンたちによる新しい公共圏づくり、下からのルール作りとして評価し、自分のホームページでもそのように論じてきた。しかし小倉によれば、例えばHP同士でリンク先の許諾を得る「ネチケット」は、アクセス規制につながりうるから「百害あって一理なし」というのだ。確かにそのようなリスクは、インテル=マイクロソフトのOS支配、ネットコミュニケーションの英語支配と共に問題となりうるが、ネット上での<相互承認>関係の可能性を模索する評者の視角からすると、「ネチケット」内部で積極的にオータナティヴ・モラルを構築していくプロセスが重要と思われる。
いずれにせよ本書の全体が、巻末論文で花崎皐平がいう「未来世代との共同性」へのプロジェクトとなっている。その歴史的検証は、「フォーラム九〇s」解散後の日本の社会運動・思想運動が引き受けざるをえない、二一世紀の重い課題なのである。
((『図書新聞』1999年3月6日号)