† For the Eternal Memories of Prof. Mikhail Masaovich Sudo, Dr. Jasim Uddin Ahmed , and Mr. Allan Sadaminovich Sasaki
 At the biginning of the year 2011, I received sad news one after another from Moscow, Bonn and Nizhnij Novgorod. I express my deepest sympathy.


On November 22, 2010, Prof. Mikhail Masaovich SUDO, the son of Masao SUDO who was killed by the Stalinist terror in 1937, died in Moscow, Russia, at the age of 78. Prof. Mikhail SUDO was the most valuable supporter to our research of the Stalinist purge of Japanese in the 1930s in USSR. Without his own experience and his help, we could not find over ten families and relatives of Japanese victims in Japan. We thank him very much for his devotion to find Japanese victims. (→ミハイル須藤追悼ページへ, go to the memorial pages of Prof. Mikhail Masaovich SUDO)

It is with great sadness that my close friend, Dr. Jasim Uddin Ahmed from Bangladesh, passed away peacefully in his sleep on January 7, 2011 in Bonn, Germany. It was on September 17 last year, when we met last time in Bonn. Jasim was my roommate when we first met at the dormitory of Herder Institute in Leipzig, East Germany, in 1972. I learned the method of multi-cultural symbiosis much from him, a devout muslim economist, especially after the collapse of Berliner Wall. He and I once called "TO OUR CLASSMATES OF THE OCTOBER 1972 GERMAN LANGUAGE CLASS OF THE HERDER INSTITUTE LEIPZIG !" (→ヤシム・アハメッド追悼ページへ, go to the memorial pages of Dr. Jasim Uddin Ahmed)

On January 16, 2011, Mr. Allan Sadaminovich Sasaki passed away in Nizhnij Novgorod, Russia. Mr. Allan Sasaki was the son of Mr. Sadaichi Kenmotsu, the most important Japanese activist in California, USA, in the 1920s. I found one American book which treated Sadaichi Kenmotsu as an excellent leader of immigrant workers in USA. Allan could know his Japanese father and families for the first time at the beginning of this century , and visited Japan in 2002. I am proud of my assistance to connect Allan and his Japanese family by the help of Prof. Mikhail SUDO. (→アラン佐々木追悼ページへ, go to the memorial pages of Mr. Allan Sadaminovich Sasaki



†合 掌†

 

 

2011.1.15  新年の誓いの矢先に、二つの悲しいニュースが、流れてきました。一つはモスクワから、日本人のスターリン粛清犠牲者須藤政尾の遺児スドー・ミハイルさんの訃報。もう一つはドイツから、私のドイツ・ボン在住の親友で、昨年9月も親しく過ごしたバングラデシュ出身のイスラム教徒、ヤシム・ウディン・アハメッドさんが亡くなったという知らせです。スドー・ミハイルさんは、1932年7月生まれでしたから、享年78歳。父須藤政尾は、当時日本から旧ソ連に渡ってウラジオストックの労働組合で日本人を組織する指導者でした。その日本人の父が、1937年、モスクワで「日本のスパイ」として突然逮捕され、銃殺されました。旧ソ連日本人粛清の初期の犠牲者の一人です。ロシア人の母も検挙されて強制収容所に送られ、ミハイルさんは「孤児」として育ち、独学で地質学の博士・教授になり、戦後も差別されながら父のルーツを求め、その無実の罪をはらし、名誉回復を成し遂げました。私の著書『国境を越えるユートピ ア──国民国家のエルゴロジー』(平凡社ライブラリー、2002年)の主人公の一人です。1994年には、父の弟・妹が存命する日本への訪問も果たしました。私は、そのスドー・ミハイルさんのルーツ捜しを助けると共に、他の多くのスターリン粛清日本人犠牲者国崎定洞勝野金政健物貞一、寺島儀蔵、小石浜蔵、松田照子らの粛清文書を探索し、名誉回復を進め、日本のご遺族・関係者に命日や埋葬地を知らせる活動のさいに、資料の眠るモスクワ在住で、自分自身のことのように他の犠牲者家族を案じるスドー・ミハイルさんから、絶大な助力・協力を得ました。残念です。心からご冥福を祈ります

 もう一人の、ヤシム・ウディン・アハメッドとは、昨年9月にも会ってきたばかり、この10年闘病生活中とはいえ、まだまだ大丈夫だとクリスマス・カードを交換した矢先の突然の喪失でした。大学を出たばかりの1972−73年、旧東独での生まれて初めての海外生活でのドイツ語語学学校の同級生、同年輩で学生寮のルームメイトでした。ヤシムはその時、すでに、独立したばかりのバングラデシュ農業大学の経済学助教授、開発経済を学んで将来のバングラデシュを背負ってたつはずの新興国エリートでした。寮の同室で、毎日5回イスラム教の礼拝を繰り返すヤシムに、はじめは驚き違和感を持ちましたが、次第に同じアジアからの留学生としてうち解け、生涯の友となりました。後ヤシムの夫人となったドイツ人女子学生カローラを交えての共通の話題は、世界の情勢からイスラム教とキリスト教、仏教の違いまで、アルコールの入った最後の話題は声をひそめての旧東独社会と国家体制への疑問、マルクス主義やコミュニズムの問題点でした。ヤシムは、カローラの願いを聞き入れ、そのまま故国に帰らず、東独籍の夫人と共に西独ボンに移住、IT技術者として働きながら、西独ムスリム移民社会のリーダーになりました。1989年のベルリンの壁崩壊の頃からたびたび会い、私の現存社会主義批判、粛清犠牲者救援、インドやメキシコへの注目への、隠れた視点を与えてくれました。一緒にインターネットの本サイト英語版から、世界に散ったかつての東独語学学校での同級生によびかけ、ロシア人のニーナや、ミャンマーの解放運動闘士とは、連絡を回復することもできました。特に21世紀に入って、9・11以後の「帝国」アメリカ対イスラム世界の対立の読解には、ほぼ毎年意見と情報を交換して、グローバルな世界での異文化共存のあり方を議論してきました。30年以上故国を離れても、ヤシムの魂は、バングラデシュとムスルム世界の将来に、向けられていました。ただし、20世紀の終わりから病魔にむしばまれ、心臓に負担のかかる長時間の空の旅は無理で、幾度か誘い夢見た日本への招待、東京での再会は、幻に終わりました。葬儀はボンのイスラム教寺院で行われるとのことです。合掌!

 2011.1.20  新年早々、モスクワ、ボンからの友人の訃報に続いて、ロシアからはもう一人の旧ソ連粛清日本人犠牲者遺児アラン・ササキさん(1920年代早大建設者同盟出身日系カルフォルニア労働運動指導者、「アメ亡組」の一人健物貞一遺児、健物は1942年9月8日強制収容所で粛清死)の1月16日病没の知らせ、さらに、日本で30年来の研究仲間だった早稲田大学教授・前比較法研究所長・早川弘道さんご逝去の、悲しい知らせが入ってきました。 例年1か月間掲げる松飾りをはずし、心から哀悼の意を表します。早川さんも、長い闘病生活でしたが、最後まで研究への情熱は衰えを見せず、実は、この1月28日に、私と一緒に連続講演会「旧社会主義圏諸国における法と社会ーー1956年と現代/世界史的転回点とその帰結」の最終回で、「社会主義体制下のハンガリー1956年革命  Lawful revolutionの起点・切断・帰結」という報告をすることになっていました。昨夏早川弘道さんに頼まれた時には、久しぶりのジョイントを楽しみにしていたのに、けっきょく私一人の片肺で、『コミンテルン・コミンフォルム解散と国際共産主義運動の変容─ 1989年=1991年への帰結』講演することになりました。かえすがえすも残念です。

 

 

 


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