それぞれの国民国家における民衆の内発的歩みに注目し、それぞれの「社会」内部に「共同性」を見出そうとするのは一理ある。しかし、その縦割り柱状の歴史を水平に切り取ると、その断面から本当に「世界史」が見えてくるのだろうか? 政治学専攻の評者には、それぞれの関連を問わないままで、西洋史・東洋史・日本史からそれぞれ一本ずつ報告というアロケーションが気になった。
「共同性」という概念の曖昧さも、指摘したくなる。斉藤純一『公共性』(岩波書店、2000年)の簡明な整理にしたがえば、「共同体」が価値の共有を前提とした同胞愛・愛国心など情念レベルでの一元的・排他的帰属を求めるのに対し、「公共性」は、異質な価値の複数性、多元的アイデンティティを前提とした、共通の関心事をめぐる開かれた言説空間である。例のゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ、「世間と社会」「近代市民社会」等の概念と関わる。そのはざまでの「共同性」とは、斉藤のいう「共同体」でも「公共性」でもありうる。
「社会化」も、やっかいな概念である。有澤広巳『インフレーションと社会化』(日本評論社、1948年)や阿部源一『社会化発展史論』(同文館、1954年)をひもとけば、第一次世界大戦後のワイマール共和国建設期ドイツで、生産手段の国有化や公有化の所有形態・構造を問題にする共産党(KPD)系のVergesellschaftungとは異なる、社会民主党(SPD)系のSozialisierungが政治スローガンとして現れ、労働者が経営管理へ主体的に参加する「社会化」が提起され論争されたことがわかる。「民主主義革命か社会主義革命か」という1950年代日本左翼の「革命戦略」論争とも無論関わっている(高内俊一『現代日本資本主義論争』三一書房、1969年)。
実際3本の報告、永江雅和「戦後共同経営と協同主義──茨城県における農業経営協同化の事例を中心にして」、泉谷陽子「中国の社会主義化と朝鮮戦争──大衆運動を梃子とした総動員態勢の構築」、戸田三三冬「仲間の繋がりと<ソシアビリテ>の運動」から一つの像をつくるのは難しい。3国の違いばかりでなく、評者自身の問題関心にひきつければ、軍政下沖縄の「島ぐるみ闘争」を抜きにサンフランシスコ講和「独立」後の「 50年代日本」を語れるか、それは朝鮮半島・台湾とどう関わるかが気になるが、この3年間の現代史部会では、「高度成長への離陸期の社会」という問題設定が強いようだ。
本年度テーマに関わらしめて縦軸に「共同性」を「共同体」と「公共性」のベクトルでとり、横軸に「社会化」をVergesellschaftungとSozialisierungでおくと、泉谷報告はおおむね国家的規模の共同体的Vergesellschaftung、永江報告はミクロな共同体的Sozialisierung、戸田報告はローカルで個人的な公共的Sozialisierungを述べた印象が強い。マルクスの「アソシアシオン」概念から導出しうる公共的Vergesellschaftungだけは、なぜか出てこない。VergesellschaftungがVerstaatlichung(国有化)となった20世紀を反映しているのだろう。もっとも泉谷報告は、中国にはcommunityなどなかったと繰り返し強調したが。
永江報告は、実は、評者を含むこうした「冷戦」「戦後民主主義」型問題設定にこだわらず、伝統的概念拘泥主義を脱構築するところから出発した。つまり、50年代日本農村社会における「共同性」が、前近代「結い・手間替え」や農本主義の延長か、満州開拓・戦時統制の流れか、ソ連コルホーズ・中国人民公社のイデオロギー的影響か、「規模の利益」を求めた資本主義的農業経営合理化の一環かは敢えて問わず、報告者の表現によれば「ファジー」なままでひとまず対象に接近し、それらのすべてを含むさまざまな思惑=「混沌とゆらぎ」のもとで、戦後農業「近代化」のなかに「経営共同化」が盛り込まれ、61年農業基本法に明文化される流れを追う。いわば「同床異夢」をその後の分裂・衰退の根拠として問題にすることよりも、「異夢」であっても「同床」につきえたことの方に着目し、評価する手法をとる。1950年代をさまざまな「夢」を持ち得た時代として特徴づけ、その「夢」の一部が現実化し新たな欲望を再生産した高度成長期利益政治の前段階として位置づけ、気がついてみると「共同性」も「夢」も失われてしまった現在と対比しふりかえるベクトルである。その構想自体は面白い。ただそれなら、指導者上野満の「夢」ばかりではなく、平須農場に加わった青年男女それぞれの「夢」に立ち入り、言及してほしかった。するとその「夢」は、同時期に土地を奪われる「悪夢」から出発した沖縄の「島ぐるみ闘争」と、果たして響き合うものがあったのだろうか?
永江報告の「混沌とゆらぎ」にあたる問題を、泉谷報告は、中国における「新民主主義」と「社会主義」の狭間の「国民経済復興期」に焦点をあて論じた。古典的には「抗日統一戦線の共同性」が建国1年後に引き裂かれ、「社会化Vergesellschaftung」が強行された顛末記である。論旨は明快である。51年2月から都市部の「国民党残党処理」を名目とした「反鎮運動」も、51-52年の政府・軍・共産党の浪費・汚職に対処する「三反・五反運動」も「大衆運動」として「従来革命史観から積極的・肯定的にとらえる傾向があった」が、「社会主義そのものの再検討がおこなわれている現在、理念ではなく、運動の実態に視点をすえて再検討することが必要」である。すると「穏健な改革方式から大衆運動による階級闘争方式」への転換による「反鎮」で240万「土匪を殲滅」、127万「反革命分子」拘留、71万人「処刑」。さらに「三反運動」で汚職120万人摘発、「五反運動」で工商業者100万人の私営企業破綻・閉鎖。これら「大衆運動」で「長期にわたるはずだった新民主主義段階はいつのまにか社会主義への移行期」と位置づけられ「朝鮮戦争の直接的産物」として中国社会主義が生まれた。そもそも社会主義とは「後進国における総力戦の態勢」で当初より「はっきりした構想があって構築された態勢」ではなく「対応をせまられた現実の諸問題に対処していく過程で徐々に形成」されたものだった、と。
これは、1989年東欧革命・91年ソ連解体をみた現時点では、旧ソ連・東欧諸国の歴史に世界的に適用されつつある分析視角であり、その意味で手堅い実証研究である。評者もその末端にいる世界的な20世紀共産主義史の犠牲者発掘運動のなかでは、かの『共産主義黒書』の推計との関連で、現在も政権にある中国共産主義の犠牲者の規模と実態が、最もファジーな焦点になっている。旧ソ連秘密史料公開で、スターリン粛清の政治的犠牲者は数百万人レベルまで絞りこまれたが、それだけ中国建国期・文革期の犠牲者が占める割合が大きくなってきた。なお統計資料の信憑性には留保せざるをえないが、泉谷報告は、ともかくも中国現代史再評価の一礎石となる。
だが「資本主義対社会主義」の旧来型視角を敢えて後景におき、「ナショナリズム」の文脈におきかえると、かえって見えなくなる問題も出てくる。この時期については、旧ソ連崩壊後の研究で、スターリン晩年の世界政策が詳しく見えてきた。朝鮮戦争をめぐって、スターリン、毛沢東、金日成の様々な駆け引きがあった。中国共産党内で毛沢東と周恩来は同じでなかった。帰趨を決するスターリンは、ヨーロッパとアジアを天秤にかけていた(ヴォイチェフ・マストニー『冷戦とは何だったのか』柏書房、2000年等)。中国共産党の「反鎮、三反・五反」は、マストニーのいうスターリンの「気まぐれ」期で、東欧諸国で「戦後粛清」が最高潮に達した時期と重なる。中国共産党の71万人処刑が事実とすれば、それは桁違いに大きい。当時の毛沢東の党内ヘゲモニーを含めて、改めて「冷戦史」「国際共産主義史」の文脈においてみる必要があるのではないか?
戸田報告はわかりにくく、評者も、参考文献にあげられた中村勝巳氏の論文と併読することによって、ようやくある種のイメージを得ることができた。
戸田報告の主人公アーダ・ゴベッティの夫ピエロ・ゴベッティ(ファシズム台頭期に活躍し1926年パリで客死)の「自由主義革命」論とは、「労働運動の問題は自由の問題であって社会的平等の問題ではない」という観点からロシア革命を評したもので、トリノ工場評議会のグラムシらの影響も受けて、宗教改革を欠いたまま達成されたリソルジメントの不徹底性を完遂する役割を工場労働者の自主的・自発的工場占拠に託し、諸個人の自立と自己決定領域拡大を革命の課題とした。ただしボリシェヴィキの国有化・計画経済・官僚主義は徹底的に批判した。今日「自由社会主義」のノルベルト・ボッビオが、ゴベッティ再評価の先頭に立つゆえんである。
戸田報告は、アーダが亡夫ピエロの思想を継承して行動党レジスタンスに加わり、解放後の50年代はイタリア女性同盟・国際女性同盟設立に参画、福祉・教育・文化の領域で活躍し、61年にピエロ・ゴベッティ研究センターを設立した経緯をたどる。その「共同性」の根拠は、ボランタリーな文化的・道徳的「友情」で、「仲間の繋がりとソシアビリテ」であるという。国民性より地域性を強調した戸田報告を聞く限り、「ソシアビリテ」とは、ユルゲン・ハーバーマスが『公共性の構造転換』で述べた「サロン」や「社交性」に近いイメージであった。
だが、ピエロの1920年代の「夢」とアーダの50年代の「夢」は、本当に同じであったろうか? 評者なりにいえば、ピエロの「自由主義革命」はグラムシの「機動戦」に照応し、アーダの「仲間主義」は「陣地戦」段階にある。労働者自治の根底に「仲間・友情・連帯」をおく視角は、評者の専攻する政治学の世界での「信頼trust」研究の台頭に照応する。「市民社会」や「公共性」の根底には諸個人の「信頼」がなければならず、紛争の非暴力的解決=自治の根底に「信頼」獲得能力を想定せざるをえない。それは、グラムシのヘゲモニー概念にも通じるし、ゴベッティもグラムシも経験しえなかったインターネット・携帯電話段階での「ふれあい」と関わる。
いいかえれば、「共同化」であれ「社会化」であれ、「友情」「信頼」「ふれあい」の欠如した社会では、その国家や所有・経営形態がどうあれ、自治が統治に転化し、組織が官僚主義化し、ヘゲモニーが強制に転化しうることを、20世紀の人類は学んできた。それは石堂清倫が20世紀から引き出した教訓、「永久革命から市民的ヘゲモニーへ」と通じる(『20世紀の意味』平凡社、2001年)。評者自身の見方では、その「陣地戦」段階も終焉し、「陣地戦から情報戦へ」「民主主義の永久革命」が必要になっている(加藤『20世紀を超えて』花伝社、2001年)。
この観点からすると、1950年代は、20世紀後半の秩序が未確立でアモルフォスであったが故に、世界のさまざまな地域にさまざまな「解放の夢」があり、それらのせめぎあいの中から生産力発展=「豊かさの夢」が、東西南北を問わず広がる初期段階だった。その「夢」は、60年代に爆発し制度化したが、70年代には早くもゆきづまりを見せ、地球生態系危機・核戦争の「悪夢」が広がった。80年代から資本の新自由主義とグローバリズムが先進国基準を強制し、国内外で格差は拡大した。「現存社会主義」の崩壊が、それを加速した。その段階で、改めて20世紀を振り返ると、50年代なら別の選択肢がありえたのではと、ノスタルジーがつのってくる。
しかし、「近代」「豊かさ」を所与とする世代にとっては、選択肢の中身よりも、歴史がファジーであること自体が面白く、新しい「解放の夢」につながる「夢の解放」のヒントがあるのだろう。それが武者小路実篤であれ魯迅であれゴベッティであれ、「夢」をもちえたこと自体が歴史的な「記憶」であるから、「大きな物語」の同志愛・献身よりも「小さな物語」のサロン的友情の方が「快適」である。藤田省三ならそれを「安楽への全体主義」と告発するだろうが、もともと「夢」も「痛み」も体験し得ぬ世代には、身体感覚たりえない。だが、「痛みの記憶」を消し去っていいものだろうか? 3つの報告を聞いて、そのような感慨を禁じ得なかった。