東京河上会公開シンポジウム「コミンテルンと河上肇」基調報告(『東京河上会会報』第74号、2002年1月、所収)、コーディネーター=住谷一彦、報告者=荒川磯男・加藤哲郎、コメンテーター=飯田泰三・古田光


新発見の河上肇書簡をめぐって

――国崎定洞と河上肇――

 

 

加藤 哲郎

 

 


 一橋大学で政治学を研究している加藤と申します。河上肇の専門家ではもちろんございません。たまたまこの間、モスクワに通いまして、河上肇に関する新しい資料を見つけ、法政大学の『大原社会問題研究所雑誌』四八〇号(一九九八年一一月)に「モスクワで見つかった河上肇の手紙」という論文を書きましたので、きょうはこちらに呼ばれたのだろうと思います。

 本来の専門からいえば、本当はアドルノ、ホルクハイマー、ベンヤミンなどの話もしたいところですけれども、その辺は一切禁欲いたしまして、河上肇とコミンテルンの直接的関係について、お話ししたいと思います。

 そのように申しますと、河上肇『自叙伝』の中で、彼自身が書いているコミンテルンとのつながりが前提になります。先ほど住谷先生からお話がありました「一九三二年テーゼ」、一九三二年の五月二〇日にコミンテルン機関紙『インプレコール』に出ましたテーゼを、河上肇は、ドイツにいた国崎定洞という人から受けとって、それを自分で訳して党中央に提出した、というくだりがあります。

 これは実際にはそうではなかったのですが、テーゼの日本語訳は「本田弘蔵訳としてあった筈だ。本田弘蔵、これが私の地下の党名である」と『自叙伝』に書いています。「一九三二年テーゼ」の翻訳者としての河上肇というのが、『自叙伝』から直接引き出されるコミンテルンとの関係です。

 そのほかに、河上肇は大山郁夫らと新労農党結成に加わり、一時は共産党と対立する関係にあったのですが、それを自己批判して新労農党を解散し、日本共産党に近づいていく時期に、モスクワの片山潜から手紙をもらったとも書いています。

 正確に言うと、一九三二年九月に河上は日本共産党に入党するのですが、それまでの時期にコミンテルンとの関係、より正確には日本支部=日本共産党との関係を密にしていったと、『自叙伝』では述べています。ただし、モスクワのコミンテルン本部と直接つながっているのではなく、ドイツを中継地にしていたようです。

 このあたりまでが、大体一九九一年、つまりソ連が崩壊するまで知られていた河上肇とコミンテルンとの関係です。

 

 ベルリンの日本人グループ

 本日は「ナチスに抵抗した日本人、ベルリン反帝グループ関係者一覧」というリストを配布しております。私自身の本来の研究とも関係するんですが、私は、「戦後民主主義」はアメリカ占領軍による押しつけか、日本の自由民権運動や大正デモクラシーの伝統の延長かという論争は、不毛だと思っておりまして、「横からの入力」としてのヨーロッパの思想の影響、とりわけワイマール民主主義の意義を、もっと考慮にいれるべきだと考えております。このリストに出ているのは、一九二〇年代の後半から三三年、つまりナチスが政権をとるまでの時期、ドイツに留学していた日本人の学者、芸術家、ジャーナリスト等の左翼グループの人々です。

 当時、ドイツの首都ベルリンには、大使館や商社関係を含め約五〇〇人の日本人がいましたが、その中に三〇人ぐらいの左派グループができていました。それに対して、九州大学教授・ベルリン大学客員教授で親ナチの鹿子木員信を中心にした右派グループがいる、その他中間派がいっぱいいるという構図で、満州事変のころには、日本の軍国主義化とナチスの台頭のもとで、ドイツにいる日本人の中でも思想的な分岐がありました。私はその中の左派グループを研究しておりまして、このリストを先に説明しておきますと、一番上が「ベルリン社会科学研究会」で、一九二六年末から、主として若手の学者たちが中心になったマルクス主義の読書会があります。これは、もともと関東大震災後に文部省派遣でベルリンに留学した蝋山政道の提唱で始まったものですが、それに東大の経済学部や法学部から留学している助教授たちと、京大の経済学部の関係者たち、つまり東大新人会関係者と京大の河上肇の弟子たちが、日本国内では思想的に相当違うのですが、留学先ではなぜか仲よく、マルクス、エンゲルスやレーニン、ブハーリンを読んでいた読書会です。この読書会そのものは三〇年代まで続きますが、読書会中心の活動というのは、二八年の三・一五事件を経て二九年いっぱいぐらい、ベルリンで続きました。

 このマルクス主義読書会の段階では、東大関係で言えば蝋山政道、横田喜三郎、有澤廣巳、土屋喬雄という法学部、経済学部の少壮助教授たちがおりまして、医学部助教授で社会衛生学を担当していた国崎定洞という人物が、私自身がもともと研究している対象です。この国崎が、読書会の中で急速に急進化し、やがて彼を中心に一九二八年後半以降、「ベルリン反帝グループ」とリストに書いていますが、もう少し実践的なグループが内部に生まれ、ドイツ共産党日本語部に移行していきます。

 京都大学、つまり河上肇との関係で言いますと、最初の読書会の段階から加わっているのは経済学部の谷口吉彦、河上の弟子で高松高商の堀江邑一、山本勝市という当時和歌山高商の助教授らです。山田勝次郎は蝋山政道の実弟で、東大を出て当時京大農学部の助教授になっている関係で、両者を結ぶ役割です。途中から法学部の黒田覚、経済学部の八木芳之助、蜷川虎三ら、当時の京大の若手助教授で河上肇と何らかの形でつながりのある人たちが、この読書会のメンバーになります。ほかに東大法学部から分かれた九大労働法の舟橋諄一、菊池勇夫らがいます。

 後の話との関係で言っておきますと、この読書会は、東大・京大系の学者だけでやっていたわけではなく、もう一つ有力なグループがあります。千田是也――戦後、俳優座の代表になる、日本の新劇の父ですが――が同じころベルリンにおりまして、このグループの中で、非常に重要な役割を果たしました。その千田に従って、例えば映画監督衣笠貞之助やプロキノ俳優岡田桑三までが、一緒に加わっております。一緒に撮った写真もあります。

 それから、もう一つはジャーナリスト。当時の朝日新聞ベルリン特派員である岡上守道(黒田礼二)、電通特派員で有澤の旧制二高以来の友人である鈴木東民という、日本の有力な通信社のベルリン特派員の二人も入っていまして、学者たちと一緒にマルクス、レーニン、ブハーリン等を読んでいた。つまり、当時日本では翻訳を読もうと思っても伏字だらけですが、ドイツでは自由に完全版の原典を読める、しかも日本では共産党は非合法ですが、ドイツでは共産党も合法大衆政党である、そういうワイマール民主主義の雰囲気のなかで、戦後の歩みから見るとびっくりするような横田喜三郎や蝋山政道たちまで含めて、後に戦時中の京大経済学部で戦時統制の理論化を担う人たちまで入って、マルクス主義読書会や小旅行、親睦会をやっているわけです。

 「ベルリン反帝グループ」のリストの下の方に、新明正道、服部英太郎、杉本栄一、大熊信行のグループがいます。これらの人は、さっき荒川先生からお話のあったルカーチと並び称されるカール・コルシュやアウグスト・タールハイマーという、ドイツ共産党から除名された学者たちを囲んで、別の読書会をもっていました。国崎定洞らのドイツ共産党に近づいたグループ――有澤廣巳などはドイツ共産党の集会でドイツ語のあいさつまでしています――に対して、自分たちは文部省から派遣された学者なのに、そんなことをすると日本に帰ったら危ないと思って、やや中立的な立場をとったのが、新明正道、服部英太郎、杉本栄一、大熊信行らです。その中心になったのは新明正道と杉本栄一で、東京商科大学(現・一橋大学)の福田徳三の門下生が中心になったグループです。

 平野義太郎や千田是也らを含む「反帝グループ」の三〇人ほどは、ドイツ共産党の関係の集会などにもみんなで行っているのですが、日本で三・一五事件を見てからやってきた新明、杉本グループは、共産党から距離を置いて、ドイツ共産党を除名されたコルシュ、タールハイマーとつき合っていたという関係になります。

 この第一のグループが、一九二八年の後半頃から急進化します。千田是也の父伊藤為吉がもともとアメリカで片山潜と友人であったという関係で、モスクワから国際反帝同盟の会議にやってきた片山潜が、ベルリンに立ち寄る。ベルリンの日本レストランで歓迎会を開く。そういう場で、片山潜と国崎定洞、千田是也らのグループが、非常に親しい関係になります。中でもドイツ共産党員の女性と親しくなって急進的な思想を持っていた、東大医学部助教授国崎定洞が、片山潜と恒常的な連絡をとるようになるわけです。

 このグループが、一九二九年になりますと、ドイツ共産党日本語部をつくります。当時の国際共産党、つまりコミンテルンは、在地主義というのですが、日本にいる共産主義者はすべて日本共産党に入る。ですから戦前の日本共産党には、朝鮮人が多数入っていました。ドイツにいる共産主義者は、国籍に関係なくドイツ共産党に入ることになっていました。そのドイツ共産党の中の日本語部の創立メンバーが国崎定洞と千田是也で、彼らは日本で非合法の日本共産党員になったことはありませんが、合法的なドイツ共産党員であったという関係になります。

 その指導のもとに、「ベルリン反帝グループ」という実践的な日本人グループがつくられます。リストの下の方になりますが、この段階になると、東大・京大系の学者は帰国し(当時の文部省派遣はふつう二年です)相対的に減りまして、京大の政治学助教授大岩誠、当時京城帝大助教授であった三宅鹿之助のほか、その後に学者になる人、例えば早稲田大学の労働法の助手の野村平爾らは新たに加わりますが、むしろ芸術家や当時のベルリン大学の日本人留学生が中心になっていきます。それが「ベルリン反帝グループ」で、読書会だけではなく、実践活動にも加わります。具体的には例えば、満州事変が始まると、当時ベルリンにいた中国人留学生、朝鮮人留学生と一緒になって、日本帝国主義反対のデモを組織します。ドイツですから合法なわけです。三二年になりますと、『レボルツィオネーレス・エイジアン(革命的アジア)』というドイツ語の月刊雑誌、アジアにおける戦争の状況とドイツにおけるファシズムの危機を結びつけて、それに反対する雑誌をつくったりします。

 その中心的メンバーは、「ベルリン社会科学研究会」出身の国崎定洞と千田是也ですが、そのほかに、文芸評論の勝本清一郎、当時のプロレタリア文学の代表者の一人である藤森成吉夫妻、島崎藤村の息子で画家志望の島崎蓊助、バウハウスの建築を学ぶ山口文象といった文化運動の担い手たち、それにもっと若い学生たち、大体旧制高校で学生運動を始め、日本では警察に捕まりスキャンダルになるというので、裕福な親が息子が赤化したから危ないというので外国に留学させた「良家の子弟」たちです。嬉野満洲雄とか名古屋の丸栄デパートの大株主の息子の八木誠三とかいう人たちが、入ってくるわけです。その人たちが中心になって、今言ったような実践活動を行い、同時にこのグループは、モスクワやパリとも連絡をとりました。

 正確に言いますと、ロンドン、パリ、マルセイユ、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ベルリン、ハンブルグ、モスクワというネットワークが、日本国外の日本人共産主義者の間でできていまして、パリには、ベルリンに次ぐ大きさのグループ「ガスプ(在巴里芸術科学友の会)」がありました。そこでは戦後文化勲章をもらう吉井淳二や佐藤敬、内田巌、田中忠雄といった画家たちが中心で、戦後に初代の国立西洋美術館長となる富永惣一や建築の坂倉準三もメンバーですが、このあたりは省略いたします。

 そのベルリンとパリの連絡係をつとめたのが、大岩誠、野村平爾、大野俊一らの学者と佐野碩、土方与志という後にソ連に入る演劇人です。それから、当時『夜明け前』を執筆中の島崎藤村の息子が二人ヨーロッパにおりまして、次男鶏二がパリで、三男蓊助がベルリンで、共に画家をめざしています。藤村の『夜明け前』の印税の相当部分はパリの次男鶏二のところに送られるのですが、そのパリに三男の蓊助が仕送りのお金をもらうため、ベルリンからパリへ夜行列車で向かいます。そのさいにモスクワ・日本とつながるベルリン反帝グループとパリのガスプ・グループとの連絡文書(レポ)が運ばれることもあったようです。歴史的・客観的にみると、島崎藤村『夜明け前』は、彼ら左翼グループの活動に貢献しているわけです。

 

 「三二年テーゼ」を河上に渡したのは誰か

 さて、河上肇に戻りましょう。当時のベルリンは、日本共産党とモスクワのコミンテルンを結ぶ、重要な中継地でした。当時の日本とモスクワを結ぶ連絡ルートには、それ以前の時期は、上海ルート、朝鮮・満州ルート、ウラジオストック・ルートなどがありまして、コミンテルンの極東指導部及び中国共産党とつながる上海ルートが、一番有力なルートでした。それが、三一年六月の「ヌーラン事件」で変わります。当時上海のコミンテルン連絡員のトップであったヌーランが逮捕されて、モスクワに通じる最重要連絡ルートが切断されてしまいます。

 そのときに、コミンテルン日本支部である日本共産党とモスクワをつなぐ一番安全なルートになったのが、ベルリン・ルートです。このベルリン・ルートは、三一年から三四年の初めぐらいまで、日本とモスクワをつなぐ最有力連絡ルートになります。三三年にナチスが政権をとったところで、ベルリン反帝グループのメンバーの多くが帰国したりドイツから国外追放になってしまうので、三四年以降はアメリカ・ルートといいますが、野坂参三が切り開くルートに重点が移ります。

 その中で、ベルリン・グループの中心であった国崎定洞を通じて、新労農党問題で自己批判した河上肇が、モスクワとの文通を進めます。雑誌や無産者新聞等々の送付、日本資本主義分析のための資料の送付、それから先ほど言った、モスクワから送られてきた「三二年テーゼ」の受理・翻訳を行ったりするのです。日本共産党とモスクワのコミンテルン本部の間にベルリンの国崎定洞グループがおり、日本には河上肇がいて、国崎定洞と河上肇と日本共産党の間にはまただれかがいる、というつながりが生まれます。このだれかというのが、実は大問題で、その問題を、これからお話しします。

 先ほど言ったように、河上肇『自叙伝』は、「三二年テーゼ」は国崎定洞から送られてきたと言っています。つまりベルリン・ルートの存在を明らかにしています。国崎定洞は、本当は二八年に日本に帰国しなければなりませんでした。東大医学部に戻れば社会衛生学講座が新設され、彼が初代教授になるはずだったのですが、それを拒否してドイツに残った人です(川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』勁草書房、一九九五年)。そのために、当時のベルリン日本大使館や特高外事警察からはにらまれています。河上肇自身も、京大をやめて新労農党にかかわっていますから、当然監視されています。その二人が直接手紙をやり取りすることは、非常に難しいわけです。それを仲介するルートがあったはずです。

 

 「宮川実ルート」は信頼できない

 先に「三二年テーゼ」の方をお話ししますと、モスクワで起草されドイツ語で初めて発表された「三二年テーゼ」は、私が調べた限りでも、実はいろいろなルートで日本に入ってきます。私が直接聞いたのは、例えば堀江邑一ルートです。堀江邑一は河上肇の弟子で、三二年当時は高松高商教授で図書館長でした。生前の堀江さんから直接聞いたところでは、二八年に彼は帰国しましたが、ドイツから本を輸入できる立場を利用して、ドイツにいる国崎グループから送ってもらった箱入りのドイツ語の本の真ん中をくりぬいて、その中に連絡文書を入れて、高松高商図書館あてに送らせていました。その連絡文書を、河上肇に直接渡したこともあるし、岩田義道という当時の日本共産党の中央委員に渡したこともあると言っています。この堀江ルートが一つ考えられます。

 それから、東大助教授だった平野義太郎がいます。「日本資本主義発達史講座」で有名ですが、彼も二九年末までフランクフルトに留学し、ベルリンの反帝グループとつながっていました。ドイツの国崎定洞から平野義太郎に手紙や資料が送られて、それを平野は「日本資本主義発達史講座」の編集プロセスで野呂榮太郎に渡したと、私は生前の平野さんから直接、何度か聞いたことがあります。

 もっと安全と思われるルートは、小宮義孝ルートです。国崎定洞は、医学部助教授で医者でした。医療セツルメント運動の中で一緒だった小宮義孝という、国崎定洞の後輩に当たる医学者がおりまして、三〇年代初めのこの時期、上海の自然科学研究所に行っています。戦後国立予防衛生研究所の所長となった有名な医者ですが、小宮は一時、新人会を通じて左翼運動に加わり、三・一五事件で共産党が弾圧され自分も検挙されてからは、基本的には政治からは離れたことになっています。しかし国崎定洞とは親友だったものですから、国崎から頼まれて、実はいろいろな資料を日本で受け取っていました。その資料は小宮さんが亡くなって後に手に入ったのですが、それを見ると、二〇年代末に東大医学部助手であった小宮のところに、ドイツ共産党関係の資料が多数送られています。小宮義孝は、それを田中清玄ら当時の共産党関係者に渡していました。小宮が上海自然科学研究所に移ってからも、このルートが続いていた可能性があります。

 河上肇関係者の中では、先の堀江邑一ルートが一番自然ですが、そのほかにもあった可能性はあります。宮川実という『資本論』を河上と一緒に訳した経済学者がいます。その宮川実が、一九七九年に出した『河上肇 その人と思想』(学習の友社)という本の中に、自分はドイツのミュンヘンに留学中『資本論』を河上肇と一緒に翻訳していたという話に加えて、「わたくしは、ドイツからインド洋回りの汽船で日本に帰ってきたが、そのときドイツ出発の直前に出た『三二年テーゼ』のドイツ文をもって帰り、河上先生に渡した」と、八五年に亡くなる数年前に言い出したわけです。これについては、岩波版『河上肇全集』の月報で、直ちに堀江邑一が、「宮川君がそんなことを言っているのはなにかの間違いだろう。私が河上先生から聞いたところによると、河上先生は国崎から郵送されたものを使ったと言っている」と批判していますが、要するに、日本共産党に「三二年テーゼ」を届けたのは自分だという人が何人かいて、宮川実は、自分こそが「テーゼ」の秘密連絡員だったということを、非常に強調しています。

 私は、この宮川証言は間違いだと思っています。それには幾つか理由がありますが、この「反帝グループ」リストには、宮川実は入っていません。例えば平野義太郎は、二九年当時、フランクフルトに留学していましたが、読書会があるたびにベルリンに来ていて、他のメンバーの証言もあります。フランクフルトは中継地として便利ですから、ロンドンやパリのグループとの連絡も務めています。宮川実は三〇年から三二年までドイツ南方のミュンヘンにいますが、ベルリンの読書会や政治的活動に加わった形跡が全くありません。そうすると河上肇との個人的なつながりということですが、果たしてそのルートが「三二年テーゼ」の伝達に使われただろうかというのが一点です(本講演の後、宮川が一九三〇年八月ごろ、ベルリン大学付属外国人向けドイツ語学校の第六五クラスに約二カ月在籍し、島崎蓊助と同級だったことが判明したが、最近発見された蓊助の日記・回想録には宮川の名は登場しない、他のメンバーの回想・証言でも宮川の名は出たことがない)。

 それからもう一点は、宮川のこの本全体が、事実関係について怪しいことです。たとえばこの中に、「服部英太郎と新明正道とわたくしとの三人が、コルシュの私宅を訪ねた」と、カール・コルシュとの会見記を二ページにわたって書いています。ところが新明正道は、ベルリン時代の克明な日記を残しています。新明正道と東北大の同僚服部英太郎がコルシュと約十回会っている記録が、日記からはっきりわかります。ところがその同行者は、さっき言いました福田徳三門下の杉本栄一や大熊信行で、宮川実の名前は一回も出てきません。新明日記全体の中に、在独時期は重なる宮川実の名前が、一度も登場しない。宮川はコルシュと会って福本和夫の話をしたと書いています。実際にコルシュと会ったことはあるかもしれませんが、少なくとも服部英太郎や新明正道と一緒だったというのはウソだろうと私は思っています。ちなみに、その新明正道の在独日記は、宮川実の死後、一〇年ほど前に娘婿の家永三郎さん宅で見つかり、私が解説を書いています(『新明正道ドイツ留学日記』時潮社、一九九七年)。こうした意味で、宮川実の話は信用できない。

 もう一つ、宮川は文部省派遣で和歌山高商からミュンヘンに行くのですが、文部省「在外研究員表」という当時の公式記録によると、一九三〇年五月に出発して三二年三月に帰国したとあります。しかし「三二年テーゼ」は、三二年五月二〇日に出ています。それ以前に三月の「クーシネン報告」など「三二年テーゼ」に戦略転換する理論的な兆候がみられる文章が『インプレコール』等に出たことはありますが、「三二年テーゼ」の原文そのものは、三二年五月発表です。ソ連の崩壊でいまや「三二年テーゼ」の草案まで見られるようになり、岩村登志夫さんがモスクワでロシア語の草案を見つけましたが、そのロシア語草案でさえ四月です。したがって、一九三二年三月に帰国した者が「三二年テーゼ」を持ち帰ることはありえないことからも、この宮川実の書いた文章は、私はまちがいだと思っています。少なくとも現段階では信用できません。

 それでは「三二年テーゼ」はどうやって伝わったか。この宮川実証言に対する疑問は、一海知義先生が『河上肇――芸術と人生』(新評論、一九八二年)という本の中で、私が紹介したのと同じ宮川の文章を挙げながら、「三二年テーゼを持ち帰った」という話はどうも怪しい、果たして宮川実はいつ帰国したのだろうかと、暗に宮川氏を批判する文章を書いています。その一海先生におそわったのですが、河上左京という河上肇の弟がいて、左京のところにドイツから多数の文書が送られ、それが河上肇に届けられていました。これは左京の息子さんから、一海さんが証言をとってきました。河上左京ルートです。

 私もこのルートが、一番可能性の高いルートではないかと考えます。先ほどの上海経由小宮義孝ルートという可能性もあるのですが、小宮ルートだと野呂榮太郎らの方にはつながりますが、河上肇には直接つながらない。おそらく「三二年テーゼ」の直接の伝達ルートは、国崎定洞が、河上肇があて先として指定した河上左京のところに送り、河上左京から河上肇に渡って、それが直接か間接かで中央委員岩田義道に渡され、当時の風間丈吉が委員長の日本共産党中央委員会に届いたと考えるべきだろうと思います。

 しかも河上肇の「テーゼ」翻訳はあくまで下訳で、それに村田陽一が手を入れています。例えば河上肇は「モナーキー」というドイツ語原文をそのまま「君主制」と訳しましたが、それを村田陽一は、それまで流布していた「三一年政治テーゼ草案」に沿って、「天皇制」と訳し直しました。以上のように、「三二年テーゼ」の伝達ルートについては、宮川実ではなく、河上左京ルートであっただろうと思います。

 

 発見された河上肇のコミンテルン宛書簡

 ではなぜ宮川実はこんな証言をしたのかが問題になりますが、晩年の宮川実のドイツ留学時代についての回想は、自分はいかに河上肇と近かったかということを強調しています。それがコルシュの話であったり、「三二年テーゼ」伝達の話だったり、当時の事情を綿密に研究してみると、荒唐無稽なわけです。しかしおそらく宮川にしてみれば、自分は河上先生と一緒に、実はこの時期に重大な共産党に関わる秘密の任務を果たしていたと言いたかったのではないかと、私は裏読みしたわけです。

 そう思ってモスクワに行ったら、実は証拠があったというのが、本日皆さんにお渡しした『大原社会問題研究所雑誌』発表の新資料です。詳しい紹介は後でゆっくりお読みいただきたいと思いますが、端的に言えば、「三二年テーゼ」より一年ほど前、一九三〇年の秋から三一年初めの時期に、河上肇がミュンヘンの宮川実にあてた私信が、宮川実からベルリンの国崎定洞のところにこっそり届けられ、それを国崎定洞がモスクワにいる片山潜に添え書きつきで転送していました。それがモスクワのコミンテルン史料館(旧マルクス・レーニン主義研究所)に、一式資料として、六〇年以上も保存されていました。

 これを読むと、おもしろいのは、河上肇は新労農党問題を自己批判してコミンテルンに近づきますが、その近づき方が、必ずしも単純なコミンテルン崇拝ではなかったことです。宮川に宛てた河上肇の手紙は、署名がなかったものですから、岩波書店版『河上肇全集』の編集で使った自筆文章のコピーを幾つかもらい、『全集』を編纂した一海知義さんと杉原四郎さんに筆跡鑑定をしてもらって、河上肇のものと最終的に判断しました。それが実は、河上肇が日本の共産党を批判した手紙だったのです。

 どういうことかというと、河上が述べているのは、コミンテルンの機関紙には日本共産党は大衆化して果敢に戦っているとニュースが載るが、それは日本の現実とは大きくかけ離れている、実際は日本の党は大衆から孤立している状況を率直に認めるべきだ、というのが一点です。二つ目に、当時は武装メーデーその他、日本共産党が田中清玄の指導のもとで非常に極左化した時期でした。その極左的戦術に対する批判が出てきます。三つ目は、労働運動、大衆運動に対する指導が全然なされていなくて、党は空文句ばかり言っている、これは日本共産党についての正しい情報がモスクワに伝わっていないからだ、だから自分は正しい情報を日本から伝えたいという点で、これが宮川実にあてた河上肇の手紙のポイントです。ただしモスクワのコミンテルン本部の方を疑うことはなく、日本から正しい情報を伝えれば、モスクワは必ずや正しい方針を出してくれるだろうという観点で書かれています。これが、新労農党脱退から三二年九月に日本共産党に入るまでの時期の河上肇の心境ということになります。実はもう一点、日本共産党に対する疑問を書いています。つまり、そういう怪しげな情報ばかりがモスクワに伝わって、正しい方針がコミンテルンからおりてこないのは、党の中にスパイがいるからに違いないということを、この手紙の中で書いているのです。その河上肇自筆の、日本語の手紙が、モスクワでみつかったのです。

 もう一つ重要なのは、実はその手紙は、モスクワの史料館では、五つの手紙がワンセットになってファイルされていました。その五通の中に、ローマ字の、やはり河上肇が書いたと思われる手紙がありました。私の『大原雑誌』論文の中に、資料として写真が出ていますが、おそらく本人は暗号で書いたつもりになっているのでしょうが、日本語が読めればローマ字で簡単に解読できる手紙があります。実はこのローマ字手紙の署名が、「本田(Honda)」となっているのです。本田というのは不思議な名前で、『自叙伝』には自分の党名だと書いているのですが、先に言いましたように「三二年テーゼ」には訳者の署名はありません。『河上肇全集』のどこを探しても、本田という名前の文書は一枚もなかったわけです。ところがモスクワには、本田という名前で書いた手紙が、二通残されていました。ただしそれは日本語ではなく、正確に言うと日本語をローマ字に直したものだったわけです。このローマ字手紙が大変な内容で、それが共同通信配信で一九九八年一〇月一八日付新聞各紙の記事になっているものです。

 先ほど言ったように、最初の宮川宛手紙で、河上は、正しい情報がモスクワに伝わらないのはだれかスパイがいるからではないかと話していたわけです。それが、ベルリンの国崎定洞と交信する本田名でのローマ字文書の中で、河上肇は、自分の最も信頼していた教え子の一人がどうやらそのスパイではないかと疑いを持った、と言いだしたのです。それが、「I」というイニシャルしかこのローマ字文書には出てきませんが、『自叙伝』と照らし合わせれば明らかなように、岩田義道という河上の京大時代の教え子の中でも最も優秀だった三一年当時の日本共産党中央委員なわけです。

 

 岩田義道を疑った河上肇

 ではなぜ岩田義道を河上肇は怪しいと思ったのでしょうか。

 『自叙伝』の中で河上は、岩田義道を解党派と疑い、岩田が官憲に虐殺された後にも彼は怪しかったと書いています。その理由が、モスクワの新資料の中に、はっきりと書いてあったのです。モスクワの史料館で、河上肇の手紙は、『国民新聞』――今の『サンケイ新聞』の前身――の記事の切り抜きと一緒にとじ込まれていました。昭和六(一九三一)年二月一日付け『国民新聞』のスクープで、二八年三・一五事件で捕まっていた共産党獄中指導者佐野学、三田村四郎らが脱獄を企てたという記事です。

 これに照応して、ローマ字の手紙の中で書かれていることは、一九三〇年夏のある日、それまで三・一五事件で捕まっていた教え子のI(岩田義道)が、仮釈放で出てきて河上肇を訪れた。ところがそこで岩田は、とうとうと党の秘密を話し始めた。その秘密の中に、党は現在獄中でも果敢に戦っており、幹部の脱獄計画があるというようなことを言った。河上肇は、ローマ字の手紙の中で、なぜこんな党の内部の重大な問題を、自分のような非党員の学者に打ち明けるのだろうかと疑問を持った、という書き方をしています。その後、自分がかわいがっていたI(岩田)は、何度か自分のところにやってきた。そのたびに、党は次に何々をやるという、当時の非合法機関紙『赤旗』や合法機関紙『無産者新聞』にも書いていないようなことを告げていった。それで自分は、彼は怪しいと思って、その後会うことをやめた。そして、岩田義道は大丈夫かということを、希望閣の主人の市川義雄らに問い合わせた。そちらの方からも岩田は怪しいからつき合わない方がいいという回答があり、自分は一切つき合うことをやめた、こんなふうに書いているのです。『自叙伝』では抽象的・一般的に岩田は解党派ではなかったかと書いていたその具体的理由が、このモスクワの手紙の中では、三一年二月にならなければ公表されなかった党指導部の獄中脱獄未遂事件を、自分は岩田義道の仮出獄直後に知ってしまった、と特定しているのです。これが、河上肇の岩田義道告発の根拠だったのです。

 この日本からモスクワ宛のスパイ摘発をつないでいたのが、どうも宮川実らしいのです。というのは、モスクワのファイルには、宮川実の筆跡の河上肇先生のことを紹介しますという国崎定洞あての手紙が一番初めに入っていて、それとワンパックで、河上肇の宮川実宛日本語の手紙、それから今言ったローマ字の岩田義道の告発状、最後にベルリンの国崎定洞がモスクワの片山潜にあてた手紙が入っていました。その詳しい内容は『大原雑誌』に解読してありますので、読んでいただければと思います。

 そこから何が読み取れるかということですが、やはり求道者としての河上肇ということでしょうか。河上肇『自叙伝』は、人の好き嫌いが激しい本で、ここでの岩田義道は、大変かわいそうな役まわりになっています。しかし、率直に自分の心境を語っているという意味では、河上『自叙伝』は、宮川実の晩年の回想などとは、とても比べものになりません。それだけ資料的価値もあります。河上は、この岩田義道疑惑について、『自叙伝』に「当時、私はモスクワ方面へ事情を通じるための手紙を出したりしたけれど、(その手紙は国崎氏にあてたと思っている。発信者の氏名を明記しないと、こんな手紙は先方で信用されるはずはないが、途中官憲の手に落ちる危険があるので、それは非常に書きにくかった)それは届かなかったことを、後日に至って伝聞した」と書いています。河上は死ぬまでそう思っていたでしょう。しかし本当は、届かなかったのではなくて、片山潜まで届いていた。その秘密の手紙が、モスクワで私が見つけたこの岩田義道告発状だった、というのが私の解釈です。

 思想的に見ると、どういう問題になるか。河上肇は新労農党をやめたところで、コミンテルンの側に立つことを決意したわけです。けれどもそのあり方は、いわば「あるべき共産党」の姿を彼の理論の方から設定して、モスクワのコミンテルンについては、多分あるべき姿の現実態だと信じている。しかし、日本に現実に存在している共産党は、どうもあるべき姿になっていないとなげいている。河上肇にとっての「あるべき共産党」の基準からすれば、仮釈放された岩田義道は、河上を訪ねるべきでなかった。実は岩田義道は、獄中党中央委員会の決定で偽装転向して出てきて、地下活動を始め、中央委員にも実際になるのですが、その偽装転向で出てきたこと自体を、河上は疑っているわけです。自分の愛弟子の、一番マルクス主義を理解し、実践活動にとび込んだ岩田義道が、出獄後すぐに自分のところにやってきたこと自体はうれしい。しかし、非党員の自分に対して、本来、共産党員ならばそんなことは言うはずのない党内の秘密を自分にもらした。だから、こいつは怪しいと感じ、二回、三回会ううちに、ますます疑いを強めた。おそらく岩田の方からすれば、恩師である河上肇を信頼して話しているのですが、河上肇にしてみれば、そんな内輪話を打ち明けられるということ自体がどうも怪しいという、不幸な師弟関係です。そこで岩田義道を遠ざけ、官憲に虐殺されて後も、戦後刊行の『自叙伝』にまで、岩田義道はやはりスパイだったのではないかと書き続けるという態度をとった。

 ですから先ほどの、日本共産党批判の宮川実宛手紙と同じで、河上肇の中には、「あるべき党」が強固に存在していて、その党というのは当時の現実の日本共産党ではない。実際は当時のソ連共産党もコミンテルンも、日本共産党と同じく、いやそれ以上に問題は多かったのですが、そちらまでは疑わない。河上の「あるべき党」「共産主義的人間」は高い水準に設定されていて、そこに認められる人間になろうと目指して、モスクワに届くようにと一生懸命岩田義道告発の手紙を出していたのが、一九三一年から三二年、ちょうど満州事変からナチス政権ができる時期の河上肇だったのだろう、と思われます。

 以上で、一応私の話ということにさせていただきます。


 第2部 ディスカッション発言1

(古田光氏のコメントに答えて)

 加藤 実はさっき五つの手紙ということで紹介した中に、もう一通ありまして、それは国崎定洞が片山潜にあてた手紙でした。河上肇の手紙を片山潜に届けるにあたっての、国崎定洞の添え書きです。ここで国崎が片山潜に添え書きしているのは、河上肇が言っていることは本当だろうか、彼は本当に新労農党から離れてコミンテルンの側についたであろうかという観点から、河上肇を人物評価した手紙です。そこで国崎が片山に言っているのは、河上が手紙の中で述べていることは片山潜に伝えるに足る信憑性があるということです。それをチェックして、ベルリンのドイツ共産党日本語部責任者国崎定洞は、モスクワのコミンテルン幹部会員片山潜に転送する、という関係になっています。

 モスクワの方では、一九三〇年代初頭は、後の三六〜三八年の大粛清期ほどひどくはありませんが、既に二〇年代のトロツキー批判が終わって、今やブハーリン批判を遂行中です。歴史学のポクロフスキー批判、哲学のデボリーン批判等々に入っていく時期です。特に日本については、二八年三・一五事件、二九年四・一六検挙と大弾圧を受けていて、そこで生き残っている日本共産党からの連絡文書に対しては、非常に警戒しています。検挙されれば官憲に屈した疑いがあるし、検挙されなかったならスパイの疑いがあるわけです。ですから、媒介者である国崎定洞も、手紙を送ってきた河上肇をも一応スパイと疑った上で、モスクワに回すべきか否かを検討します。国崎定洞は河上肇の手紙を、「純情」という書き方で評価しています。「この純情は信じていいだろう」と言って片山潜に転送します。今後の日本との連絡のために、日本での階級闘争の中で、河上肇のような人物は重要な役割を果たしうるであろうから敢えて送るという添え書きつきで、モスクワに送っている。そういう意味では、ベルリンでもモスクワでも、あらゆるものを疑ってかかる疑心暗鬼の雰囲気を前提にして、読まれ送られているのです。

 河上肇自身も、岩田義道が怪しいという話を書いていますが、これはモスクワやベルリンから見れば、素朴な疑い方です。年若い教え子の岩田義道が、恩師であるということで彼の知り得た党の秘密を打ち明けたのでしょうが、河上肇にしてみれば、共産党員は、たとえ師弟関係にあっても、年齢が離れていても、そんなことは話すべきでない。河上にとっての「あるべき党」からすれば、本当の党員は絶対に脱獄計画などは打ち明けるはずがないということで疑った、という関係です。ですから、河上も疑心暗鬼になってはいますが、これは当時の共産党の実体を知らない、牧歌的なレベルです。

 しかも『自叙伝』では、モスクワに伝えるための手紙は非常に書きにくかったという。よほどすごい暗号文が出てくるかと思ったら、日本語をただローマ字に変換しただけで、本文の筆跡はどうも秀夫人で自分では書いていないのですが、しかし「本田」の署名だけは自分で書いている。これは、河上肇の書いた英語やドイツ語の筆記体と照合し、岩波編集部と一海さんと私で、間違いなく河上だと判断しました。ですから筆跡をごまかしたりしながらも、本格的暗号文での連絡はできない。いわば探偵ごっこのレベルです。これは当時のコミンテルン世界を覆っていた、もっと深く隠微な、人間の本質まで疑った方がいいような疑心暗鬼、後に展開する粛清への動きに比べれば、極めてまだ初歩的・牧歌的です。国崎定洞の「純情」という評価は、相当に正しいと思います。

 ここからはフロアからの御質問にも一緒に答えることになりますが、河上にコミンテルン幻想があり、共産党幻想があり、「あるべき党」が非常に高く設定されていた、と言いました。けれどもそれは、河上肇においては素朴な形であり、国崎定洞や堀江邑一、あるいは宮川実も、実はみな共産党幻想の中にあるわけです。彼らの場合は、もう少し計算しているでしょう。例えば河上の手紙をモスクワに送るとしたら、誰に宛てたらいいだろうかと考える。モスクワでは片山潜が読むのか、山本懸蔵が読むか、野坂参三がいいかと考えるはずです。ちょうど野坂が病気を理由に保釈されてモスクワに潜行する時期なので、野坂参三が読むかもしれないということまで計算しなければとても送れないような手紙を、河上は、平気で国崎に送っているわけです。国崎は、自分が最も信頼する片山に送る。

 ついでに言いますと、実は、河上肇が岩田義道を告発する手紙を送ったのと全く同じ時期に、日本共産党が公式にコミンテルンに送った、一九三一年四月の日本共産党報告書があります。風間丈吉以下の中央委員会が、これは上海ルートで、中国共産党を通して送ったものが、偶然ですが時期的に同じなものですから、モスクワの史料館では、五通の河上肇ファイルの次に保存されていました。これには本格的暗号文も出てきます。「非常時共産党の真実――一九三一年のコミンテルン宛報告書」というタイトルで、法政大学『大原社会問題研究所雑誌』二〇〇〇年五月号に、私は解読文を紹介しています。

 この公式報告書を読むと、知識人のことは、ほとんど出てきません。いかに日本の労働者は果敢に戦っているかという報告書になっています。風間丈吉が委員長、スパイM=松村こと飯塚盈延、岩田義道、紺野与次郎が中央委員の時期です。この時期の現実の日本共産党では、河上肇の本の印税が、重要な財源になっていました。当時の日本共産党は、三一年のコミンテルン宛報告書でも、毎月の経常財政が二千円でした。河上は『自叙伝』で見る限り、五百円単位のカンパをやっています。彼が数回カンパすれば、大体当時の日本共産党の経常経費がまかなえる規模です。その後、三万円を狙った大森銀行ギャング事件が起こって、河上肇の娘も、義弟大塚有章も巻き込まれます。

 ところが当時の日本共産党からモスクワへの公式報告書には、そういう話は一切出てきません。まさに河上肇が素朴に批判していたとおりで、労働者階級の前衛党であるわが党は、労働者階級の比率を高めて八幡製鉄に二つの党細胞をつくったとか、川崎のメーデーではプロレタリアートが武装して警官隊と対決したという類の誇大報告です。現実の日本の運動では、プロレタリア文化運動や河上肇のような知識人の役割が、大変重要でした。党員はわずか数百人なのに、例えば『戦旗』という文芸雑誌は数万部出ている。一九三〇年から三一年の「非常時共産党」というのは、実は戦前の日本共産党史上、党勢が最高潮の時期で、特に知的・文化的影響力が大きかった。にもかかわらず、そういうインテリや文化運動のことは、公式報告書にはほとんど書かれていない。もっぱら非合法の『赤旗』と『無産者新聞』がどのぐらい労働者に行き渡ったかという報告です。

 つまり、共同幻想は、コミンテルンに対する共同幻想、日本共産党に対する共同幻想のほかに、労働者階級に対する幻想もあります。党指導部の方は、要するに河上肇にしろ、国崎定洞にしろ、宮川実にしろ、インテリからカンパをもらうことと、もっぱら秘密連絡ルートを安全に確保するための存在という形で考えている。その意味では、河上肇ばかりではなく、当時の左翼知識人全体が純情だったと言えるだろうと思います。

 あといくつかフロアから具体的な御質問がありますので、ついでに答えておきます。岩田は河上に疑われているとは思っていなかったか、という質問です。岩田義道は、何度か河上宅に行くうちに、実際に出入り禁止になります。その段階では、どうも河上先生は自分のことを疑っているようだと、わかっただろうと思います。そのポイントは、偽装転向か本当の転向かという問題です。事実としては、先ほどの三一年の日本共産党公式報告書に「同志鳥羽」という名前で、獄中中央委員会が同志鳥羽を新しい任務のために出獄させたという書き方ででてきます。つまり岩田の釈放は、偽装転向だったわけです。だから岩田義道は、河上先生は自分が本当に転向し解党派になったと思われたんだなあと、多分寂しく思う立場にあったわけです。かといって、実は私は偽装転向ですなどという話をしたら、ますます河上肇から疑われるという、不幸な関係になっていると思います。

 宮川実のウソは、密告の媒介者たる後ろめたさを隠すためか、岩田義道や河上肇をかばうためか、あるいは単なる自己顕示欲かという質問ですが、私には自己顕示欲以外に考えられません。この宮川実の国崎定洞宛の河上紹介の手紙は、おそらく共産党員としての使命感で出したものであろうと思います。新労農党をやめてコミンテルンを信頼し始めた河上肇を、コミンテルンでいわば名誉回復させたい、というのが宮川実の狙いだったと思います。しかしそんなスパイ告発の仲介を自分が昔やっていたとは、戦後になっても言うわけにはいかない。そこで「三二年テーゼ」や福本和夫の話まで入れて、いかに自分はドイツ滞在中も河上先生と緊密な関係であったのかと語る。それはおそらく、長谷部文雄、小林輝次、堀江邑一その他、河上肇のお弟子さんたちの中での一番弟子争いと関係があろうと思います。河上肇が一番信頼していたのは自分だったと言いたかったのではないかと、私は思っています。

 最後に、「三二年テーゼ」の翻訳者は本当に河上肇でしょうか、あれは長文ですし一晩で訳したといっている、村田陽一氏が和訳したという真相はどうか、という質問です。この点は、ほとんど決着がついています。というのは、『自叙伝』には事実関係での相当大きな間違いがあります。先ほどの本田訳もそうですが、こういう書き方になっています。「テーゼの原文は一九三二年六月二五日付で発表されているが、その日本訳は早くも七月一〇日の『赤旗』特別号として頒布されたのである。それには本田弘蔵訳としてあったはずだ。本田弘蔵、これが私の地下の党名である」と。

 事実としてまず、原文は六月二五日に出たわけではありません。五月二〇日のドイツ語版『インプレコール』で、五・一五事件の報道と同じ号です。翻訳の日付の方は正しく、七月一〇日付け『赤旗』特別号に発表されます。ただし六月二八日付けで、共産党内のプリント出版が出ていたようです。いずれにしろ一カ月以上あるわけです。問題は、当時のベルリンから日本までの交信期間です。郵送だと、シベリア鉄道で大体二週間で、遅くとも二〇日ぐらいで着くみたいです。南回りの船便はさらに長いのですが。つまり五月二〇日にドイツ語で公式に発表され、それが三週間以内に着いている。その後一〇日ぐらい翻訳期間をとっても、六月末ないし七月一〇日に十分まにあいます。ですから河上の叙述をうのみにせず、事実と河上の叙述を照らし合わせれば、河上肇が翻訳したのは間違いないだろうと思います。それが一晩でできたかどうかは確定できませんが。

 この点を私は、村田陽一さんから直接聞いたこともありますし、村田氏も、岩波版『全集』の月報に「『三二年テーゼ』翻訳のころ」を書いています。相当急いで訳したものが送られてきたけれども、それは間違いなく河上肇のものであった、それを自分は手を入れて完成したと、書いています。そこでは理論的には、村田陽一の方が重要な役割を果たしたと思います。先ほどのモナーキーの河上訳「君主制」を「天皇制」と訳し直したのは、戦後の歴史学などに与えた影響から言えば、決定的です。そういう意味では重要ですが、下訳は河上肇であったし、そのことを河上肇は、おそらく死ぬまで誇りにしていただろうと思います。ですから、七月一〇日付け『赤旗』の日本語訳の訳者はだれかと言われれば、私は、論文に書くときには「河上・村田共訳」としています。ちなみに村田陽一は、その後雑誌『インタナショナル』九月号に発表するときは、村田陽一単独訳を出しています。けれども最初の『赤旗』訳の方は、河上訳と言ってもさしつかえないと思います。


 第2部 ディスカッション発言2

 

(飯田泰三氏のコメントに答えて)

 加藤 私からは、いわば知識社会学的に、お答えすることにします。先ほどの共同幻想に近い話で、これは飯田泰三さんのご専門の丸山真男研究の世界で、丸山真男、大塚久雄、川島武宜らのいわゆる近代主義者たちは、なぜ西欧市民社会をあんなに理想的に描いてしまったのかという類の批判があります。つまり、現実にヨーロッパにあった近代社会とは違うものを、しかし理論的には非常に純化した形で、いわばあるべき市民社会、あるべき自立した個人の像を描いたという話があり、その理由づけとして、都築勉さんは、それは留学体験がなかったからだという、おもしろいことを書いています。つまり、戦前は東大では助教授になるとどこかに留学することになっているし、留学する場合には、大体ドイツを中心にしていました。そうすれば、現実のビュルガーリッヒェ・ゲゼルシャフトを見て体験できたはずなのに、丸山たちが学問の道に入ったときには、丸山、大塚、川島の三人に共通していますが、ちょうど日本が世界から孤立して戦争に入る時期であったために、留学できない。そこで理論的に、文献から頭の中で西欧市民社会を純化する。逆に言えば、そのことによって理論的に洗練された市民社会像をつくりえた、という説明があります。

 ではその前の時代はどうだったのかといいますと、私は、一九二〇年代半ばで一回変わったと思います。文部省の「在外研究員表」が、明治八年から記録が残っています。明治八年一一人、明治三八年一七人派遣で在留者計八五人、大正初めが年四〇人で在留者計約一〇〇人、この頃から大体、帝国大学の助教授になって一年か二年たったぐらいの人が行く形になります。ところが関東大震災後に急増します。昭和三年は一五七人派遣、大体二年滞在ですから当時の在留者が四二三人です。昭和八年ぐらいまで毎年一五〇人から二〇〇人を文部省は派遣していて、震災前の倍になります。一九二八年から三一年が最高です。

 学科別では、大体三分の二が理科です。技術、工学、医学等で、残りの三分の一が文科ですが、これが実は、大学別の割り当てがあります。ピーク時の一九三一年の例で言いますと、東京帝大が一番多く二四人、京都帝大一六人、東北帝大、九州帝大、北海道帝大が一緒で各九人。つまり、東大三、京大二、その他旧帝大一という割合です。その後に大阪帝大二、東京工大四、東京文理大四、東京商大三、金沢医大三等々とあって、あとはいわゆるナンバースクールです。旧制高校からは、これは全国一律に、大体年一人です。

 行先は、ドイツが在留者の半分以上で、訪問先まで入れると八割近い。一番ポピュラーなパターンは、ドイツに長く滞在し、イギリスに数か月寄って、帰路にフランスかイタリアかアメリカに行く、というパターンです。ドイツに直行するか、ロンドン経由で入るかなどの分かれはありますが、ドイツは大体文部省派遣者の八割の行先に入っています。つまり、当時の世界のアカデミズムの最先端ということになります。

 そういう行先からもわかりますが、福本和夫、三木清、村山知義らの留学は、二〇年代前半なわけです。帰国してドイツの最新思潮を紹介すれば、それがそのまま日本の流行思想になる。しかし震災後は、今度は数が多いので、受け手の選択肢も広がる。大体帝国大学の先生は洋行して帰ると、洋行中に勉強した最新事情を講義するのが当り前という形になってきます。関東大震災から三〇年代の初めまでは、全国の大学で、その時点でのヨーロッパの最新思想が若い講師により講義されている状態です。それが、満州事変から国際連盟脱退、日独伊防共協定・三国同盟へと進むプロセスで、留学はドイツも含めて難しくなり、留学生の数もどんどん減っていきます。丸山真男の時代、三〇年代後半になると、今度はほとんど行けなくなる。わずかに限られた人だけがドイツに行く。そういう知識社会学的な転換が、僕は一九二四年前後、三三年前後にあったと考えていまして、そのそれぞれの時代に、日本にどういう形でマルクス主義を含む西洋思想が入ってきて、どのような影響を与えたのかを考えるべきだと思っています。

 UCLAのシルバーバーグさんという女性研究者が、『中野重治とモダン・マルクス主義』という本(平凡社、一九九八年)を書いていますが、あの手法です。つまり、イタリアのグラムシ、ドイツのベンヤミンと同じような問題設定が日本になかったかと見ていくと、中野重治の詩につきあたるという形で、思想の世界性・同時代性を問題にするような視角です。そういう形で思想の越境を見ていくときに、それを連結するものとして、ナチスに追われたユダヤ人の亡命の問題はよく言われますが、日本については、私は留学という問題にもっと注目し、留意すべきではないかと思っています。



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