『大原社会問題研究所雑誌』第498号(2000年5月)所収
「非常時共産党」の真実
──1931年のコミンテルン宛報告書──
加藤 哲郎
本誌第480号(1998年11月)で紹介した「河上肇ファイル」と同じロシア現代史資料保存研究センターのボックスのなかに、「RTsKhIDNI,f.495/op.127/d.299/1-18」=「Report
──JAPAN (March
1931)」と題するファイルがある。表紙の表題のみ手書きの英語であるが、それ以外の内容はすべて手書きの日本語で、便箋にびっしり書かれており、日本共産党のコミンテルンに対する公式報告書のようである。今回は、河上肇の達筆に比べればはるかに読みやすい、この日本語資料を紹介する。
この資料は、二つのファイルに分かれて保存されていた。「河上ファイル」と一緒にみつかった「RTsKhIDNI,f.495/op.127/d.299/1-18」にはロシア語でpp.1-18とナンバーがついていたが、日本語でもナンバーがついており、
冒頭ロシア語pp.1-12までは日本語ナンバー通りであるが、以後、日本語では13-25頁が欠落しており、日本語26-29頁(ロシア語ナンバーpp.13-16)に飛んでいる。ロシア語ナンバーpp.17-18は、内容から見て全体の「はしがき」と思われる2頁の断片である。
この欠落部分と思われる日本文13-25頁は、98年夏にみつかった。別のジェーロのファイル「f.495/op.127/d.288/3-17」に入っており、内容的に重要と判断されてか、別置されていた。しかもその裏面には、報告そのものとは関係ない奇妙な走り書きがあった。それは、秘密連絡のためのルートと暗号を記したもののようである。またその別置ファイルの後ろには、日本語で31-34頁と付された「一九二九・十一月ー三〇・六月迄の日本共産青年同盟の組織活動の報告」と題する4頁の報告があり、末尾には、そこまでの日本語文と同じ筆跡で、「一九三〇・七・一六 金子」と署名されていた。
当時の日本共産党中央委員長風間丈吉の獄中手記『「非常時」共産党』(三一書房、1976年)をはじめとした日本側資料と照合すると、この「金子」とは、「浜田」とも名乗っていた中央委員紺野与次郎の党名であり、1931年初めに再建された風間・松村[=飯塚盈延、スパイM]・岩田義道・紺野の中央委員会が、紺野与次郎を上海に派遣したさいのコミンテルン宛公式報告書と推定できる。
以下に紹介するのは、上記二つのファイル(三つのジェーロ)から筆者が合成した解読文である。
「Report──Japan(March 1931)」
(原文は縦書き、< >内の数字は原頁、強調は原文傍点、[ ]内は加藤の注、旧漢字・略字の一部は新漢字・正字に直した)
- <ロシア語17> 日本共産党の現在に於ける活動及び組織状態の報告に先立つて、一九二九年に於ける四月十六日事件後の日本共産党の一般的情勢を報告することが必要であると考へる。
- 一九二九年「四・一六」事件によつて、同志鍋山[貞親]、三田村[四郎]、佐野[学]等の指導者並びに殆んど全党員が逮捕された後、党は同志山岡[=田中清玄]の指導の下に再の活動と共に党の諸任務の為の活動を展開して来た。然るに、一九二九年十一月半頃(十一月七日記念日カムパニヤ直後)に部分的逮捕があり、一九三〇年二月に至つて総選挙闘争直後中央委員会の会合が襲はれ、(和歌の浦事件)同志山岡・佐野(博)を残して中央委員は全部逮捕された。この事件を構成した直接の原因は、二九年十一月以後の部分的逮捕によつて、捕はれた元中央委員前野[=前納善四郎?]が中央委員会に関する秘密を自白した事にある。その後四月に至つて同志佐野も亦スパイ加瀬Kato(中央部の技術部員[=加瀬菊雄])によつて逮捕された。かくて、四月迄に中央並びに地方下部機関が破壊されるに至つた。
- 同志山岡は、五月に至つて、一九三〇年一月より四月迄の期間に、C.C.C.P.[=ソ連邦]より帰った処の留学生と連絡がつき、これらの同志と共に、五月新たに、中央委員会を構成した。中央委員会は、東京地方委員会を組織し、大阪地方オルグを派遣し、活動を開始したが、七月十六日以後、中央委員会の同志山岡、潮(ワシーネン[=岩尾家定?])等の同志が全部逮捕され、(当時大阪にゐた同志松村[=飯塚盈延]を除く全部、中央部は東京地方にあった。)
- <18>同時に、東京地方委員会(当時地方組織として活動してゐたのはこの委員会のみであつた。)の同志も全部(当時プロフィンテルン代表として派遣された金子[=紺野与次郎]を除いて)逮捕された。共産青年同盟も又当時中央部が成立して間もない時であるが、七月十六日後全部逮捕された。かくて、五月より七月迄の期間に於て、同志山岡及びC.C.C.Pより帰った留学生の同志は、唯一人松村を除いて、全部逮捕され、党中央委員会及び、東京地方委員会が破壊された。この事件を構成した原因は、日本労働組合全国協議会の中央委員長西山(党員)がスパイであり、党の再組織の当時にあつて、彼は党の重要なる同志との接触が多かつたからである。
- 七月の逮捕後に於ては、十二月迄、重要な党機関員、同志松村が一切の活動を統制して来たのであるが、遂に無党的状態を示し、組合、同盟、「第二無産者新聞」の組織、「無産青年」の組織等の党外組織が企業内に於て対立する傾向をすら生じた。
- <ロシア語1・日本語1、「REPORT ---JAPAN (March
1931)」の上書きあり>
- 現在の党組織状態は次の如くである。
- 東京地方 党員四十四名、その他、保釈出獄中の党員で活動してゐる者又は活動せんとしてゐる者十八名、
- 工場細胞六(東京日々新聞、シマヤリング、鈴木鉄工所、凸版印刷)
- 大阪地方 党員三名
- 神戸地方 党員一名
- 山口県 党員十四名
- 細胞五(ウベ炭坑三、徳島鉄板、徳島海軍燃料所)
- 北九州 八幡鉄工所 細胞二、党員九名
- 福岡 細胞一、党員不明
- 党員一名
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- 以上の情勢は、殆ど全部本年一月より連絡を恢復し三月十五日迄に明かになったものである。
- 党機関の復活によって、今後約二ヶ月間に党に組織しうる者は次の如くである。
- 東京百名、大阪五十名、神戸二十名、五十名(海員)
- <2>日本共産党の財政予算表
- 一ヶ月の経費 二、三一〇円
- 中央委員 5名 一〇〇円づつ 五〇〇円
- 労働組合フラクション 6名 六〇円づつ 三六〇円
- 技術部員 8名 五〇円づつ 四〇〇円
- 大衆団体フラクション 10名 四〇円づつ 四〇〇円
- 旅行費 3名 一五〇円づつ 四五〇円
- 印刷所費 3ヶ所 五〇円づつ 一五〇円
- 資料費 五〇円
- 日本共産青年同盟の一ヶ月の経費 三〇〇円
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- 党及び同盟の一ヶ月経費 合計 二、六一〇円
- 「無産者新聞」「無産青年」は補助なくして出版可能なり。
- 党は、二、六〇〇円中六一〇円を自給することが出来るが、
- 一ヶ月 二、〇〇〇円の補助を要求す。
- 一ヶ月要求額 二、〇〇〇円
- 以上。
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- <3> プロフィンテルン第五回大会代表同志吉川[=大井昌]、宮田[=児玉静子]十月に帰り、同志武田[=風間丈吉]十一月に帰り、代表金子[=紺野与次郎]十二月に帰り、同志武田は一九三一年一月末に同志松村[M=飯塚盈延]に会ふ。かくて同志松村、武田によって、一月末中央委員会が構成された。現在の中央委員会の構成次の如くである。武田(徳川)書記長(並に組合部)、松村(組織部)、鳥羽(アジプロ部、保釈出獄中の同志、三・一五事件の被告[=岩田義道])、金子(共産青年同盟係)
- その外、C.C.C.Pに二名の中央委員を派遣することに決定された。即ち田中(現在C.C.C.Pにあり[=山本懸蔵])、及び小坂Kosaka[=野坂参三]。
- 以上の如く、一九二九年四月十六日に於ける党の大打撃以来、大衆的逮捕を受けて中央委員会の破壊されること二度、(一九三〇年二月及び一九三〇年七月)に及び、現在の中央委員会は今年一九三一年一月末に組織せられたる事情にあり、一九三〇年以前に於ける党の全国的活動及び組織状態を精確に報告することは、本報告者に取つて全く不可能である。
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- <4>(二) 一九二九年「四・一六」事件後一九三〇年三月迄の党活動の主要なるものは、次の如くである。a)労働組合の方面に於て、二九年七月より十二月迄に三度行はれた労働組合闘争カムパニヤである。党は第一期のカムパニヤに於ては、各地方に於ける(雑種の産業労働者の組織されてゐる所の)合同労働組合を解体して、産業別協議会に整理統一した。第二期に於ては、組合員の獲得カムパニヤを行ひ、企業内にある組合員グ[ル]ープを拡大し、且つこのグループをして、分会機関を確立せしめ、その企業の具体的綱領を決定せしめた。第三期に於ては、産業別協議会を単独の産業別労働組合に組織し、産業別綱領を決定した。この全カムパニヤを通じて、海員組合組合同盟及び総連合に組織されたる企業内に革命的反対派を結成し、これを各産業別労働組合に組織することが出来た。日本金属、日本化学、日本紡織、日本交通運輸、日本出版、等々。このカムパニヤは、@殆ど当時の経済闘争の激化とは、関係なく従って、大きなストライキ或は多くのストライキの独自
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- <5>的指導を通じて大衆的組合員獲得によつて達成されたのではなく、殆んど文書による配布網の活動によつて獲得された組合員を基礎とした。A大衆の中に於て、単独の産業別組合についての執拗な政治的宣伝が殆んどなされなかつた。B中、小工場を放棄する傾向を取つた。
- かくて、労働組合カムパニヤは、機械的に行はれ、協議会は、約三千を統一し得たに過ぎない。
- b) 国際反帝国主義戦争デーのカムパニヤでは、東京に於て銀座街に約四百名を動員した。
- c) 十一月七日ロシア革命記念日早朝には、細胞の党員その他の下部機関の党員に東京地方、大阪神戸地方の大工場に向つて数十万枚のビラを撒いた。ビラ撒きは、労働者が工場に入る余程前の時間に行はれ、党員は短刀を所持して自衛した。東京の一紡績工場では、当日一部の職場で十分間ストライキによつて闘はれた。(この工場の細胞は最も強大なるものであつた)。ビラ及び工場新聞の内容は、ソヴェット同盟の労働者と日本の労働者の
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- <6>生活状態、賃銀、労働条件の差を示し、日本に於けるプロレタリア独裁を宣伝し又ソヴェット同盟擁護、帝国主義戦争反対を宣伝したものである。
- d) 一九三〇年二月総選挙闘争は、異常に緊張した階級闘争の時期に行はれた。二九年は前年に比較してストライキ数が二倍に増加し二九年末には、東京市電、浅野セメント、ゼネラルモータースの大ストライキがあり、秋田、鳥取、富山、愛知に於ては、農民及び漁民の暴動が発生した。この様な尖鋭化した階級関係に於て、金融資本が、その政策を実行せんがために解散した議会の総選挙に対して、次の如き態度を取つた。選挙闘争の目的は、労働者農民の革命的台頭を、ブルジョアジー、地主、及び社会民主主義者が欺瞞的議会主義の側に押しやらうとする事に闘争し、議会の解散、労働者農民のソヴェット政府樹立の為の闘争たらしめること、又「矛盾によろめいてゐるブルジョア政局を一層動揺させ不安ならしめるために、労働者農民大衆を政治的大衆闘争に奮起させ結集さすこと、政治的大衆闘争激発に依って労働者農民の政治的力を大きくし、現在の階級関係を我々に有利な方に転換すること」(「第二無産者新聞」第13号)であると決定した。而して、党は、七月テーゼ[=27年テーゼ]の主要スローガンと共に、次のスローガンを出した。
- 「全日本の労働者諸君、総選挙は来た……日本共産党の要求はこうだ……
- 帝国主義戦争反対!
- 馘首、工場閉鎖、操業短縮反対!
- 労働強化反対、労働時間を七時間にしろ!
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- <7>賃金即時三割値上げ!
- 十八歳以上の男女に選挙権を与へろ!
- 投票日日給全額支給の公休にしろ!
- 獄中の共産党員を即時釈放しろ!
- 労働者農民の政府樹立万歳!
- 社会民主党の候補者を叩き落せ!
- 日本共産党に投票せよ!」(「第二無産者新聞」15号)
- 党は次の同志を立候補せしめた。
- (1) 佐野学(東京及び新潟)……当時獄中にあり。
- 山本懸蔵(東京)……モスコウ在中、
- (2) 中村(東京)高橋(神奈川)田井(大阪)西村(神戸)中村(兵庫)──以上の五名は、企業に従事してゐる工場労働者として、その姓のみを発表して各工場地帯に立候補せしめたものである。
- (3) 農村に於ては、山根積(島根) 平野寅松(千葉) 上田音市(三重) 山田有幹(沖縄)(以上のうち、同志上田音市のみ保証金を納めたものである)
- 党は左翼労働組合、革命的反対派、全国農民組合有志(多数派)を通じて選挙闘争の為の行動委員会を企業、農村に組織し、従業員大会、工場代表者会議、農民大会を開いて闘争する方針を取つた。
- 投票日近くに於て、党は、工場細胞及び中部、下部党機関の党員を殆んど全部動員し、且つ、活動的な左翼労働組合員をも動員して数十万のビラを撒いた。
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- <8> ビラ撒きは、工場労働者の出勤(主として)又は工場から帰る時に、行はれ、党員は、「日本共産党万歳」を唱へ、三人一組(乃至二人)をなし、短刀その他を以つて自衛した。このビラ撒きによつて、多くの党員(中幹部の同志も)及び左翼組合員(約百名)が逮捕され、又警官と衝突して、警官を刺した事件が数件に及んだ。
- 二月に於ける総選挙の結果は、精確なる報告は不可能であるが、同志佐野に対する投票は約五百票に達した。
- この闘争に於て、党は、広範なる大衆を自己の政策に引付けることに成功したとは云へない。それは、党が企業内に於いて、大衆と充分に結合してゐないからであり、大衆の経験によつて党の政策を大衆に理解させ、支持させる為に、上手に活動することが出来ないからである。
- この闘争に於ける特徴は、党員及び左翼労働組合、革命的反対派が、企業内に於て行動委員会を組織して活動したことである。それは多くの不充分があつたに拘らず、困難なるテロル下にあつて、充分に闘争し得る闘争形態たることを我々に確信せしめた。(コミンテルン西欧事務局の決議は選挙前は、我々の手に入らず)。
- e) 一九二九年に於ける経済危機の増大と、革命的台頭と共に、テロル的支配が強まるや、日和見主義者は、動揺を示して来た。かかる主要なる偏向に対する闘争は、次の二つである。
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- <9> 1、党内に於て、常に日和見的態度を取り獄内にあつて解党派となつた所の福本[和夫]、浅野[晃]一派に対する闘争。
- 彼等は、党の主要スローガン「君主制の廃止」「大土地所有の無償没収」の撤廃、農村に於ける土地革命の代りに、協同組合による土地の共同管理を称へ、農村に於ける党の重要任務を軽視し、抽象的に来るべき革命をプロレタリア革命と性格付け、同時に非合法的共産党の不必要、現在の党の解体と合法的共産党の組織を要求した。
- 彼等に対して党は、党中央機関紙「赤旗」、その他のすべての出版物に於て、その解党主義たる本質をバクロして、党内細胞に於て討論させ、且つ彼等を除名した。かくして、非合法的党の強大化の思想及び七月テーゼの党綱領の下に、獄外の党員大衆を、一人の偏向者をも出さずに、統一した。
- 2、党内の解党派と相呼応して、党外大衆団体を分裂させ且つ、党の指導下より、是等の大衆団体を切り離し、合法的労農政党の指導下におかんとした大山一派に対しても、党中央部は、「赤旗」「無産者新聞」「無産青年」パンフレット等の出版物を動員し、且つ細胞、大衆団体内に討論させて闘争した。
- この闘争に於て、大山一派の新労農党結成を未然に粉砕することに成功せず、東京交通労働組合、大阪木材、大阪金属労働組合を彼等に奪はれた。だが、成功的方面は、「如何なる困難な条件に於ても、プロレタリアートの党は唯一つであり、他の如何なる組織とも代へることは不可能である。又鉄の規律を持つプロレタリア党は、プロレタリアに依ってのみ、如何なる困難な条件に於ても組織することが可能であり、組織せねばならぬ」てふ思想、
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- <10>及び、「プロレタリアートのヘゲモニー」の思想を大衆化し得たこと、大山一派を『左翼社会民主主義者』としてバクロしたしたことである。彼等は、一九二八年三月以前の合法的活動の時代に於て大衆組織即ち労農党、労働組合、農民組合内に入つて来た所の社会民主主義的要素であり、その日和見主義的傾向によつて、その後の白色テロル下に於けるプロレタリアートの闘争を理解することが不可能に落入つた者である。党は企業内に於ては、「プロレタリアの日常闘争や一切の階級闘争は、如何なる組織のみがやりうるか?」と云ふ問題を、工場新聞、ビラに書き、彼等をバクロした。党は、一九三〇年一月大阪に於て、ゼネラルモータースのストライキを指導した大山派の大阪金属労働組合に対して、ストライキ労働者との下からの共同戦線により、この闘争を通じて、ストライキ労働者を大山一派労農党に反対させ、大阪金属労働組合をして労農党反対協議会支持を決議させることが出来た。
- これは、ストライキ破りとしての彼等の本質及びその「左翼」的言辞の虚偽をその行動によって、バクロした事件として、その後労農党下の大衆の間に、労農党の本質を疑はしめ、「解消」運動を発展させるに至つた有力な事件である。
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- <11> この期間に於ける党活動の主要な欠陥は、経済危機及び大衆の左翼化を過少評価し、大衆的闘争を充分に行わなかった事である。部分的要求のための闘争を準備組織し、この闘争に於て大衆を党に近付け、党の政策を大衆的に理解させると云ふ方法を取らなかつた事である。
- カムパニヤが次から次へと計画され、各カムパニヤに於ては「何日から何日までをAをやり次の何日から何日まではBをやる……等々」の短期間に多くの期間を区別した闘争指令が取られたが、これは多くの場合に於て、党細胞の大衆的創意をさまたげる傾向を持つた。
- 又、党細胞は、文書による宣伝煽動の活動に重きをおき、闘争の先頭に立つことが不充分であった。
- かかる右翼的傾向は、一九三〇年始めより、大衆の左翼化が明瞭になるや、極左的偏向を生むに至つた。即ち武装ストライキ(協議会)、又は党細胞員を短刀で威嚇して行動を強制する、メーデーに於ける「メーデーを暴動化せよ!」のスローガン、等々。だがこれらの極左的偏向は、三〇年前半期に於ける党中央部の破壊等、党諸機関の破壊された時に発生したものである。当時唯一人残ってゐた中央部員同志山岡[=田中清玄]は、かかる極左的偏向を認め、これとの闘争及び経済闘争の重要性を強調した。
- 三〇年四月に至つて同志山岡は、東京地方委員会を組織し、協議会の中央委員会の組織変へを始めた。党はこの四月より大衆への転換の方針を取った。党はストライキ闘争に接近し、その指導のために活動し始めたのである。この意味に於て、四月に於ける東京市電ストライキに対する諸活動は、それが、ストライキの改良主義組合幹部による絞殺の数日前に始めて開始されたにしろ、特別の意義を持つものである。
- このストライキ闘争に於ける主要な活動は次の如くである。
- 1、各車庫の革命的反対派を統一し、その指導的中心を作り、改良主義幹部への追従から、
-
- <12>独自的指導のための決定的対立に導いた、
- 2、党東京地方委員会は、地方委員会の署名を以つて、ストライキ労働者に対するビラを、ストライキ中及び、ストライキ絞殺後引き続いて撒いた。ビラの内容は、ストライキ状勢と改良主義幹部の取引に対するストライキ労働者の態度、ストライキ委員会を如何にして作るか、党の部分的要求等である。
- このビラ撒きは、三人一組の宣伝隊によつて、各車庫に毎日行はれたものであり、警官、スパイとの衝突が行はれ、彼等を短刀で刺した件数二件である。宣伝隊には、学生が多く組織された。
- 3、ストライキ絞殺後、改良主義幹部の裏切行動のバクロを職場で組織し、且つ新たに革命的反対派の要求を決定して次のストライキの独自的指導の準備を開始した。且つ、以上の闘争を通じて、党細胞二つ組織し得た。(党細胞がその他に一乃至二、作られようとしてゐた頃報告者はモスコーに派遣された為、これは不明である)。
- 4、ストライキ闘争を通じて大衆的に党の政策を宣伝した。
- 然るに一方、東京地方委員会は、メーデーに対しては慎重且つ厳格たる態度を以つて対せず、厳格なる討論なくして、軽々に「メーデーを暴動化せよ!」のスローガンを出した。示威運動の組織は不成功に終つた。
- 川崎に於ては、約二十名の共産青年同盟員が、ピストル、竹槍を持って改良主義組合の集合地に集り、警官と衝突した。
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- <以下日本語13頁から25頁までは、「f.495/op.127/d.288/3-17」を挿入>
- <日本語13>(三) 一九三〇年四月より五月の間、東京市電ストライキ中同志山岡は始めて、C.C.C.Pより帰った留学生と会ひ、これらの同志と共に、五月党中央委員会を構成した。此の中央委員会の構成は、報告者には不明である。
- かくて新なる中央委員会の指導の下に、党は、当時共産青年同盟に最も大きく現はれて
ゐた所の極左的偏向に対する闘争を開始し、党当面の任務を、労働階級の多数者獲得とし日常闘争を強めねばならぬとした。
- 党は、右翼日和見主義的合法主義を現在の最大の危険として指摘した。この様に、党は、二つの戦線に対する闘争を始め、一切の出版物をこれに動員した。
- 然るにこの中央委員会は、二ヶ月乃至二ヶ月半にして再び破壊されるに至り、同志山岡、潮(ワシーネン)その他の同志は悉く逮捕されるに至つた。
- この間に於ける主要なる党活動は、次の如くである。
- 一、二つの戦線に対する闘争の開始、
- 二、経済的ストライキ運動への転換、六月以後の星製薬(東京)のストライキに対して、東京地方委員会は、四月五月に於ける東京市電ストライキと同様に活動した。
- 三、プロフィンテルン第五回大会へ五名の党員を代表として派遣した。(六月より七月まで)
- 四、刷新同盟(協議会内)に対する闘争
- 組織的活動に於ては、主要なるものは東京地方に於ける細胞の組織、共産青年同盟中央部の組織及び東京地方に於ける同盟細胞組織、全国協議会中央部の組織であつた。
- 報告者は、六月二十日前後に日本を出発した為に(当時東京地方委員)東京地方の党組織状態を報告しうるに過ぎないが、これによつて、七月十六日当時の組織状態を
-
- <14>うかがひ得る。
- 第一地区 工場細胞二(5名)
- 間もなく成立せんとせる細胞一、
- 第二地区 工場細胞五(16名)
- 間もなく成立せんとせる細胞三(約6名)、
- 第三地区 工場細胞三(6名)
- 間もなく成立せんとせる細胞四(約7名)、
- 党及び同盟は、従来の宗派的傾向と戦ひつつ細胞組織活動を遂行した。
- 協議会中央部組織変へは五月末頃より行はれたのであるが、第一の新中央部は六月に逮捕されて居り、当時再組織活動を妨害する部分的検挙も、亦頻々として工場から行はれた。この再組織活動は四月以前の協議会の中央常任委員長西山を通じて報告を得、これに基いて行はれたのである。西山は、当時の党の重要機関の同志と接触する機会が多かつたのであるが、スパイとして活動し七月十六日以後の大検挙を行つたのである。
- 七月の検挙及びその後に於ては、党中央委員会の同志全部(大阪にゐた同志松村を除いて)、東京地方委員会の同志全部(C.C.C.Pに派遣された金子を除いて)、共産青年同盟中央委員会の同志全部逮捕されるに至つた。かくて、十二月にいたる迄無党的状態を発生するに至つた。
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- <15>七月後に於て、同志松村(当時松村は日本の状勢を充分知るに至つてゐなかつた)は、東京に於て、残つた党員を結集し、「第二無産者新聞」編しゆう部の党員同志 [2字分空白]を労働組合係とし、「無産青年」編しゆう部の党員同志鈴木を共産青年同盟係とし、活動を続行した。同志松村はプロフィンテルン大会への代表が帰つて後党中央委員会を組織する方針を取つたのである。
- 同志松村は、七月当時の東京地方に於ける党細胞を知らず、従つて、これらの細胞と連絡を取ることは不可能であつたし又、日本に帰って間もない為に情勢に精通せざること及びスパイの危険のために、積極的に活動を展開することが出来なかった。(七月直後には、大衆団体内の同志が互にスパイ呼りをする等の混乱状態を呈した)。
- 十二月迄の主要なる活動は、プロフィンテルン第5回大会の日本決議、プロフィンテルン西欧書記局「日本に於ける経済危機とストライキ運動」、大会の政治テーゼ、植民地半植民地に関するテーゼ、組織テーゼ、C.C.C.Pに関するテーゼ等の出版、プロフィンテルン五回大会議事の報告、等を実行しプロフィンテルン五回大会に関する報告のカムパニヤを行ったことである。左翼労働運動内に、この活動によつて、プロフィンテルンの日本に関する批判への支持を作り、之を中心として自己批判を開始すると同時に、協議会内刷新同盟をして解体せしめ、南、佐藤等の運動を敗北せしめることに成功した。
- この期間に於いて、党の統一的活動が無かった為に、労働組合、「無産青年」の支局組織、「第二無産者新聞」の支局組織、共産青年同盟等が同一企業内に於て、各々分離し
-
- <16>独立した指導を行ひ、或場合には、互に対立する等の混乱状態を発生した。
- (四) 同志武田C.C.C.Pより一九三〇年十一月中旬日本に帰り、翌三一年一月に至つて同志松村と会することが出来た。かくて、同志武田は、党の一般的状態を松村より聴取し、一月末、同志武田、松村は、党中央委員会の組織を行つた。
- 武田(以後党名を徳川とす)──中央委員長兼組合部
- 松村──組織部。鳥羽──宣伝扇動部。金子──青年係。
- 在外中央委員として、山本懸蔵及び(小坂鉄)の二同志を決定す。
- 同志鳥羽は、三・一五事件に於て捕はれ、現在保釈出獄中の同志であり、且つ同志佐野、鍋山、三田村等の次の如き指令を受けて、出獄したものである。――若し党中央委員会が破壊されて組織されずにある場合は、党中央委員会を組織せよ、若し又、中央委員会存在する場合は、中央委員会に参加すべしとの指令。
- 金子は、三〇年四月より六月までの東京地方委員であり、その後、プロフィンテルン第五回大会代表として派遣され、三〇年十二月日本に帰ったものである。(金子以後党員濱田)。
- 同志小坂鉄は、三・一五事件の被告であり、現在保釈出獄中の同志である。同志小坂は、コミンテルンへの代表として決定された。
- 一月、第一回の中央委員会が開かれたが
(徳川、松村、鳥羽出席)、二月十八日に於ける第二回中央委員会に於て、党の基礎的方針を決定した。
-
- <17>第二回中央委員会(徳川、松村、鳥羽、濱田出席)の主要問題は次の如くである。
- 1、 徳川によつて起草されたる政治テーゼ草案が基本的に承認された。この政治テーゼに於ては、日本に於ける当面する革命を「ブルジョア民主主義的諸任務を広汎な範囲で含む所の社会主義革命」と規定し、革命の主要スローガンを、一、金融資本の独裁の転覆、ブルジョア国家機関の転覆、労働者農民のソヴエツト政府の樹立、プロレタリア独裁の樹立、二、工場、鉱山、船舶等の一切の生産機関及び銀行のプロレタリア的国有化、三、地主、天皇、国家、寺社の大土地の没収、四、朝鮮、台湾の完全なる独立、植民地革命の援助、五、C.C.C.Pの擁護、以上の五とす。
- テーゼは又、現在の経済危機の増大と革命的台頭の波を指摘し、党当面の任務を大衆的経済闘争及び大衆的政治闘争の組織及び共産党の強大化、とし、緊急任務として、工場細胞の再建と、その政治的強化を強調しプロレタリアートのヘゲモニーの強化に全力をあげつつ、農村に於いて、農村細胞を組織することを指摘した。
- 2.党再組織問題
- a) 従来の宗派主義と徹底的に闘争し、左翼労働組合に組織されてゐる企業の労働者の大多数を党に加入せしめ、工場細胞を組織し、これを政治的に強化すること。
- c) 党員比率を、労働者八十%農民及びインテリゲンチャ二十%とすること。
- d) 農村に於て、農業労働者、貧農の間に農村細胞を組織すること、
-
- <18>以上の組織方針を決定し、東京、大阪、神戸、京都、静岡、岡山、山口、北九州の各地方に、地方オルガナイザー一名づつを決定した。このオルガナイザーは、保釈出獄中の党員より選ばれ、地方に於て、その地方の労働者をキャプテンとし、自分は補助オルガナイザーたるべきことを決定された。
- 3、中央委員会各部の正式の決定。
- (一)組織部(松村)(二)組合部(徳川)部員二名。(三)プロアジ部(鳥羽)部員二名。この部員を「第二無産者新聞」編しゆる部に入れ完全にこれを統制する。「プロレタリア科学」「戦旗」「ナップ」「インターナショナル」「産業労働時報」等の統制。資料調査部を共産青年同盟より分離し、党のプロアジ部統制とす。(四)青年係(濱田)、
- 4、「赤旗」(党中央機関紙)再刊第二号の編しゅう。内容は次の如し。ブルジョア議会の結算、労農派の批判、革命的反対派について、現在の経済闘争の政治的性質、経済闘争の独自的指導について、C.C.C.Pについて、婦人問題等。
- 第三回中央委員会(徳川、松村、鳥羽出席)は二月二八日開かれ、主要問題は、農民問題の対策である。全国農民組合の七〇%乃至八〇%が貧農であり、中央部の過半数が左翼(共産党支持)であり且つ、左翼は組合に於て多数派を形成してゐる故に、全国農民組合内に反対派を形成することを、宗派主義として禁止した。党は、貧農、農業労働者の間に農村細胞を作り、細胞は全国農民組合左翼と共に、農村にて貧農、中農下層を広汎に農民委員会に組織し、活動すべきことを決定した。
-
- <19>第四回中央委員会(徳川、松村、鳥羽、濱田)は三月八日に開かれ、主要問題は次の如くである。
- 1、 政治テーゼは、日本に於ける戦略問題を取扱い、而も一九二七年の七月テーゼを変更するものであるから、コミンテルンが、七月テーゼの変更を決議し、新にテーゼを発表するを待つべきであるとして、これをテーゼとして発表することを中止した。書き改めて、パンフレットとして出版することになった。コミンテルンが日本テーゼを発表することを早めるために、同志小坂の派遣を速めることが決議された。
- 2、 三月十五日事件記念闘争に於て、保釈出獄中の党員が組織してゐる委員会をして、次の内容の檄をプロレタリアート、農民、兵士に対して出さすことを決定した。「共産党員は、ブルジョア裁判に対しては分離裁判に反対して、統一的裁件を要求し、ブルジョア裁判の審問には、プロレタリアート、農民の生活状態と共産党の政策を以つて答へるであらうこと、及び、プロレタリアート、農民、兵士はその大衆的行動によつて捕はれたる共産党員の釈放を要求せねばならぬ。」
- 3、 濱田を上海に派遣し、コミンテルンに報告せしめること。
- 4、 「赤旗」は、一ヶ月乃至一ヶ月半後の闘争を取扱ふべきであると決定され、再刊第三号の編しゅうを行つた。内容は次の如し。
- 社会民主主義党の合同問題、メーデー闘争、パリコンミュンと日本プロレタリアート(国家の問題)、「三・一五」事件の意義、最近に於けるストライキ指導の問題、青年問題(組織活動)。
- 尚、「赤旗」再刊一号への批判に答ふること。
-
- <20番欠・21、以下25まで裏書きあり>
- 党中央委員会の三一年一月以後の主要なる活動は次の如くである。
- a) 第五十九議会に対して、「第二無産者新聞」「無産青年」その他労働組合の一切の機関紙が、議会の解散を要求せるに対し、党中央委員会は、二月重要なる檄を「第二無産者新聞」に発表した。この檄は、日本に於ける経済危機及び国家機関のファッショ化、腐敗せる議会主義を取扱ひ、且つ又日本に於ける五百万のプロレタリアート、高度に発達せる資本主義、金融資本の独裁が存在することを取扱ひ、日本に於ける当面する革命は、「ブルジョア民主主義的諸任務を広汎なる範囲に於て含む社会主義革命」であることを主張し、かくて、議会の解散なるスローガンの誤謬を説明し、党は、このスローガンを撤回し、その代りに、ブルジョア議会の破壊、全ブルジョア国家機関の転覆、労働者農民のソヴエート樹立、をスローガンとして出すことを宣言した。
- 且つ、この檄に於て、党は次のスローガンの下に、現在の飢餓と貧困に対して闘争せねばならぬことを主張した。ブルジョア的産業合理化反対、賃銀の全般的引上、馘首反対、一週五日、七時時制確立、国家全額負担の失業保険即時制定、人身売買的雇傭法・監獄的寄宿制の廃止、一切の奴隷的労働条件のハイシ、同一労働同一賃銀、農民の借金棒引、農民への租税の撤廃、小作料全廃。かくして、党は、ブルジョア議会の破壊、労働者農民のソヴエット樹立なるスローガンの下に議会に対する闘争を転換することに成功した。
- b)
共産青年同盟内の誤謬との闘争。即ち、現在の経済危機と、資本家的合理化によるプロレタリアートの貧困と飢餓に対する逆襲の闘争を組織すべき任務を見のがし、一切の闘争を、反帝国主義戦争へ集中せよとする同盟の理論と闘争す。
- 同盟に対しては、大衆への転換の政策を与え、青年に対する文化的政策、スポーツ的政策を強め、且つ部分的綱領を作成せしめ青年のストライキの準備とその独自的指導への転換を援助した。かくして、同盟の労働組合の方面の活動を決定的に転換すべき方針を与へた。
-
- <22>又、同盟の反帝国主義戦争及びソヴエット同盟擁護の闘争が、従来の大衆的性質を持たず、スローガンの宣伝に過ぎないのであるが、この方面に於て、決定的転換を行ふこと、植民地の革命運動の紹介、ソヴエット同盟の社会主義建設の紹介、植民地問題の大衆化等の仕事を計画せしめ且つ強化すること、かくして、反帝国主義戦争、植民地独立のための闘争、ソヴエット同盟擁護の闘争を大衆的行動を以つて、闘ひ得るように同盟の活動を開始せしめた。
- 同盟の組織的方面では、宗派主義と闘争し、企業の活動的青年を大胆に加入せしめること及細胞の政治的強化の方針を採用せしめ、地区委員会、地方委員会を組織せしめ且つ、この諸機関及び中央部に企業の労働者を参加せしめることに成功した。
- c) 革命的労働組合の方面に於ては次の如し、
- 1、 「プロフィンテルン五回大会の日本決議を如何に理解すべきか」なる、協議会中央常任委員会の論文に対する批判。この批判に於て、協議会は、日本に於ける経済的危機の原因を、国内的矛盾を説明せずに単に外的矛盾のみから、即ち日本資本主義が国内市場が少いために外国市場に依存する特質を有するが、この国外市場が今や各帝国主義国家の競争によつて狭まり、且つ、植民地半植民地をも含む世界的危機によつて深められてゐると説明してゐるかかる誤謬を批判した。且つ、協議会の論文は、幾多の点が不充分であり、且つ、中心なく説べられたのであるが、党は、之等の点を批判した。
- 2、 労働組合のボルシェヴィキ化なる思想と闘争し、ボルシェヴィキ的戦術の適用なる方針を説明す。
- 3、労働組合革命的反対派の組織方針を明かにす。即ち、革命的反対派は、改良主義幹部と決定的に相違せる政策と戦術をもつて、拡大し、まとまつたグループとして、革命的組合の産業別組合に組織
-
- <23>さるべきことを明かにす。
- 4、 中央部の組織。三名の中央常任委員会の組織。
- 西野……関東自由労働者組合からの古い同志。三〇年九月頃よりの協議会の中央委員長。
- 東野……労働組合全国同盟の革命的反対派の同志。
- 北野……関東金属労働組合時代からの古い同志。
- 三名とも労働者、党員。
- 5、 「労働新聞」の再刊。約六千部。
- 6、 失業者運動の展開。
- 協議会は失業者同盟と失業者委員会とは各々別個の組織であり、前者は、下から失業者によつて組織される大衆組織であり、後者は、協議会の中央部又は産業別組合中央部内の一委員会であるといふ方針を発表したが、党はかかる方針を批判し、両者は別個の組織でなく、同一のものであり、協議会の革命的労働組合によつて、失業者委員会(又は失業者同盟)が失業者の間に組織されねばならぬとした。
- 二月二五日の国際失業反対デーの闘争は、短期日によつて準備されねばならなかつた(この指令を後れて受取つた)が、党はこの闘争を断乎として遂行すべきことを指令した。
- 各産業別労働組合は、その機関紙(「紡績労働者」「化学労働者」「金属労働者」「出版労働者」「俸給労働者(サラリーマン)」等々)及び工場ニュースに於て、失業問題を取りあげ、産業別スローガンをかかげ、就業労働者と失業労働者の共同進出による示威運動を、扇動した。
- 東京に於ては、当日、約一〇〇〇名の大衆を示威運動に動員することに成功し、示威運動は、五五の重要金属工場地帯で行はれ、且つ、ストライキ中の芝浦製作
-
- <24A>工場(約一千二百名)の争議団の付近で行はれ警官隊と衝突し、約二百乃至三百名検束された。この日芝浦工場ストライキ団は共産青年同盟の婦人同志の提案によつて、この示威運動へ参加を決議し、これに参加せんとしたが、警官隊によつて、分散せしめられた。一千名の過半数が、失業労働者であるが、その他に左翼労働組合員、就業労働者、学生等も参加した。
- この示威運動は従来の合法主義的傾向に対して大なる打撃を与へ、日本に於ける大衆的行動の組織の可能性に対する確信を作り出し、労働者運動の重要な転換のモメントたらんとしてゐる。
- その後失業者委員会の組織が増大し、現在東京に於て、約一〇〇〇名の失業者を組織し得た。職業紹介所を中心に失業委員会組織す。三月一日、朝鮮万歳事件記念闘争に於ける協議会のビラ(朝鮮を独立せしうるものは日本プロレタリアのみである)なる理論を批判す。
- d)
二月に於ける建国祭に対して党は、東京に於て次の主要スローガンによつて、各企業にビラを撒いて闘争した。ビラは主として学生によつて撒かれ、東京市電車庫等では、直接車庫の労働者に手渡しされた。
- 主要スローガンは、三千年の奴隷の歴史天皇制を倒せ! 飢餓と失業の資本家地主の政府を倒せ! 労働者貧農のソヴエット政府の樹立万歳!
-
- <24B>現在党内の中心問題は、(一)当面せる革命の性質と基本的綱領、(二)現在に於ける、プロレタリアート、貧農、中農、兵士、俸給生活者、小市民等に対する部分的綱領の作成の問題である。
- 主要問題で不明なるもの。農民の各層の分析、農民運動の方針も決定されねばならぬ。
-
- <24C>植民地運動の擁護、朝鮮、台湾独立のための運動は、不充分なる宣伝扇動の活動以外の領域を脱してゐない。C.C.C.Pの擁護の闘争も同様である。最近、植民地運動及びC.C.C.P擁護のビラを企業内の労働組合員が撒いた時、その組合員は、この活動が、自分等日本の労働者とどんな関係を持つかよくわからないと云つた。この事実に於て見ても、この方面の活動が、いかに弱いかが明かである。本年三月一日朝鮮万歳事件記念日に、協議会は、ビラを出して、朝鮮、台湾の独立のための闘争を呼びかけたが、この中で協議会は、「朝鮮を独立しうる者は、日本プロレタリアートの[み]である」と云ひ恰も、朝鮮の運動は日本の運動によつて指導されねばならぬかの如き理論と、日本以外のプロレタリアートの力を度外視した理論を書いたが、党は直ちにこれを批判した。この様に、この方面に於ては決定的てんかんを行ひつつある。
-
- 共産党員公判に対する対策
- 本年一月以後、党中央部に同志鳥羽によつて、保釈出獄中の党員より成る公判対策委員会と連絡を取るに至つた。
- 最近党中央委員会は、1、党員の裁判所での態度は、党政策の宣伝と、ブルジョア裁判の階級性のバクロとすること、2、党員にならうとしてゐたもので未だ党員でなくて起訴されてゐる者の公判に対する態度は、自分は党員でないことを主張し、然し日本の労働者は、党の政策には賛成であり、これを支持することを主張すべきであると決定した。公裁に対しては共産党員被告全部の統一裁判を要求し、暗黒裁判反対、公開禁止の反対を要求すべく決定す。
- 弁護士は、Z・K[中央委員会]で決定されないが、細迫(ホソセコ)[兼光]、神道[寛次]、上村[進?]、フセ[布施辰治]、等農民組合関係の弁護士を、無償で弁護せしむるものである。弁護士団に対するZ・Kの方針は決定してゐない。
-
- <24D>モップルの活動。
- 「救援新聞」(約五千)発行、モップル会員数は現在調査中、会員に、労働組合、全国農民組合、学生、ナップ、芸術家、雑誌等の文化団体のメンバーが、組織されてゐる。会員は、労働者が過半数であり、工場に於て、ニュースが出されてゐる。
- 活動 (1)獄内党員へのサシ入れ、(2)農村の小作争議の救援活動、(3)被告党員の家族への補助とその慰安(会)のためのピクニック、劇等が催されてゐる。
- ストライキへの活動は方針だけで、実さいに殆どやられてない。
- <25>最近に於けるストライキ運動の特徴は次の点に表はれてゐる。
- 1、 ストライキ運動は、昨年後半期に於ける大きな紡績産業のストライキ後(東洋モスリン、東京モスリン、倉敷紡績等)、今年(三一年)には明かに金属産業の重要企業に拡大ししつつある。長崎造船、川崎造船、浅野造船に於ける数千名の馘首は既に行はれ、東京地方に於て、二月芝浦モーター工場のストライキ後、その一帯の重要なる金属諸工場、日本鋼管、日本鋼材、日本電気、富士電気、池貝製作所等は、大量馘首を目前にひかへてゐる。且つ四月には海軍工廠一万二千の大量馘首が決定されてゐる。その他、八幡製鉄所等の金属重要工場に於ける馘首と賃銀引下げが開始される情勢にある。
- 同時にストライキ運動は国有鉄道及び海上運輸産業に拡大せんとしてゐる。国有鉄道の最近一ヶ年間の減収一億円であり、局長会議は大量馘首の決議をなした。海上運輸に於ては、休[?]業船五十万とんに及び最近最低賃銀の引下げが行はれた。
- ストライキは、重工業及び交通運輸産業の主要なる企業に起らんとしてゐる。
- 1929年9-11月
- 社会局の統計 1930年 争議件数 1682 (1034)
- (1-11月) 争議人員 149165 (126750)
- 10月11月の合計件数,人員比較は,1930年は29年の件数44%,人員86%増なり。
- 2、 然らば、ストライキは如何に闘はれてゐるか? その指導はどうか?
- 昨年まで主要なストライキの殆んど全部を指導してきた改良主義組合幹部は、現在、大量馘首、賃金値下げを中心とした異常に緊張したストライキに対して、指導能力がなく、且つ公然たるストライキ破りへ転換しつつある事が極めて明かになつ
-
- <ここで文書は「f.495/op.127/d.299/13-16」に続く>
- <日本語26・ロシア語13>て来た。「左翼」改良主義組合たる東京交通労働組合は、昨年(三〇年)十一月の東京市電争議に於ては、長い間ストライキに入らうとする思はせぶりの続行後に、全く突如として妥協しストライキを未然に絞殺した。これは、革命的反対派及び左翼分子の殆ど全部を警察に検束せしめた直後に於て、れた。海員組合も亦、最低賃銀の低下を戦はずして承認した。組合同盟は、昨年の東洋モスリン、東京モスリンのストライキ指導に於て、現在のストライキは、政治闘争であると宣言したが、その後何等主要なストライキの指導をなさざるに至つた。
- 今まで大衆の急進化に押されて、花々しく前面に出てゐた改良主義者は、公然たるストライキ破りとして明かになつて来た。かくて、大衆は、或場合には彼等をのりこえて、一揆的に行動し、或場合には、その戦闘力を挫折せしめられてゐる。本年二月の芝浦モーター製作所のストライキでは、解党派の統一協議会、アナ系の芝浦労働組合は、警察の弾圧を理由として、一切の積極的行動を拒否し、ストライキを惨敗せしめた。「積極的行動の戦術は、政治闘争になるから」そして「警察は政治闘争を弾圧するから」大量馘首に反対するストライキは経済闘争として協調的に行へ──これが現在の改良主義者の大衆への態度である。かくて、現在ストライキは、改良主義者に対する決定的闘争がなされ、今までの合法主義的ストライキ戦術が打破されずには、大衆の戦闘力を発展せしめることは不可能であり、正に今、革命的戦術によつて指導されねばならぬ。
- 3 協議会は、本年大阪に於て数個のゴム工場の同情ストライキを組織し、そのストライキ委員会の統一に成功した。東京セルロイドのストライキ委員会による独自的指導に成功した。芝浦製作所のストライキでは、ストライキ
-
- <27・14>争議団で活動した同志は唯一人の婦人労働者であつた。(外に社員一人あつたが、争議団に社員は参加してゐない)。五百名以上のスキャップが出て、ストライキが惨敗に至るまで、この同志の活動によつて、婦人大会で婦人委員会が選挙され、特別の婦人の要求二十を決議し、婦人労働者二百五十名は一人のスキップもなく最後まで結束した。この婦人の同志と二人の社員の同志(コムソモール)は、十名の新組合員を獲得した。 このストライキ中、労働組合(日本金属)は、「揺れるバラック」を発行して統一協議会、アナルコサンチカリストをバクロしたが、ストライキ戦術に対する不充分なる理解を示した。このストライキは、革命的ストライキ戦術を理解し実行し得る工場分会なしにストライキの独自的指導とその革命化が不可能であることを示した。
- 三〇年十一月の東京市電争議では、革命的反対派が(その大多数が青年及び婦人)青年ストライキ委員会を組織して、活動し始めるや、革命的反対派は全部検束されて、絞殺された。
- かくの如く、左翼労働組合は、独自的指導に向つて僅かながら成功しつつあるが、今、急速に、ストライキ戦術を理解し、これを企業内に大衆化し、全力をあげて、大衆の先頭に立たなければならぬ。
-
- <28・15>党の労働組合に対する対策
- 一、 党と労働組合の混同は今尚深い。労働組合を極めて少数の活動的分子だけに制限しようとする傾向は、企業内に於ける大衆的日常闘争を不充分にしかやらない為に起つてゐる。党はこの宗派的傾向と闘争しなければならぬ。革命的工場委員会、革命的世話役等の革命的労働組合の企業に於ける補助組織を未だ実際的に理解するに至つて居らず、これらの統一戦線機関の組織活動を開始してゐない。党はこの活動を強めねばならぬ。
- 二、 経済闘争の準備と独自的指導に向つて急速に転換させねばならぬ任務がある。現在ストライキに於て、改良主義組合の公然たるストライキ破りが特に積極的に行はれて居り、未然にストライキを絞殺する傾向が多い。彼等は公然と積極的に「産業平和」の理論を大衆の中に唱導せんとしてゐる。且つストライキ運動は、重工業に拡大しつつあることは明かであり、海上、陸上(国有鉄道)交通の重要企業へ拡大しつつある。党は、改良主義組合の、「産業平和」の理論との闘争、そのストライキ破りの行動に対する闘争を指導し、革命的労働組合に於けるストライキ戦術に対する不充分なる理解と合法主義に闘争せねばならぬ。協議会の経済闘争の革命化のための活動は、「xx産業ゼネラルストライキ」のスローガンのみの極めて機械的な活動であり、党は、ストライキ委員会の組織と、ストライキの拡大、政治的要求を結びつけて政治的闘争へ高めるための闘争を指導せねばならぬ。かくて、現在拡大しつつあるストライキ運動に対する積極的な組織方針を樹立せしめ、この闘争を通じて、東京、大阪、神戸、京都、名古屋、静岡、中国、北九州、北海道等の地方組織を実質的に拡大し、強化せしめるために活動せねばならぬ。未組織労働者の獲得と地方組織の強大化は、重要な任務である。
-
- <29・16>三、 革命的反対派は現在、明確な反対派としての政策、戦術に基いて、充分な活動をしてゐない。党は革命的反対派を、改良主義組合幹部と決定的に相違せる革命的方針の下に活動せしめ、実質的に、強大たらしめねばならぬ。
- 四、 農業労働者の最近の賃銀は、四十銭乃至六十銭に引下げられて居り、農業危機によつて失業は増加せしめられてゐる。党は、農業労働者の組織方針、その行動綱領の作成を援助し、組織活動を開始せねばならぬ。移民労働者主として朝鮮人労働者の間の活動を強化せしめねばならぬ。
- 五、 青年及び婦人労働者の組織は、僅少であり、協議会の青年部、婦人部は、実質的に活動してゐない。各産業に於ける青年、婦人の状態を調査せしめ、行動綱領を作成し、青年、婦人の主要なる層の獲得を指導せねばならぬ。
- 六、 党はソヴェット同盟擁護、植民地運動の援助、帝国主義戦争反対の闘争を、大衆的たらしめるための活動を指導せねばならぬ。
- 七、 失業者運動に対しては、東京地方以外の地方に拡大せしめることが必要であり、失業者運動の戦術を指導し、飢餓行進、示威運動の組織等、実際的に闘争を開始せしめねばならぬ。
- 八、 労働組合の平易なる出版物の発行。会費の徴収、
- 九、 新幹部の養成は、現在極めて不充分である。その原因は企業の労働者に日常闘争を積極的に行はしめることを恐れ、実際闘争によつて、訓練することをやらないこと(合法主義)が主要なるものであり、且つ、新幹部を指導部に引上げ、特別なる教育活動を放棄してゐるからである。党は、この方面の活動を強めねばならぬ。
-
- <日本語30欠、31以下は「f.495/op.127/d.280/31-34」>
- 一九二九・十一月ー三〇・六月迄の日本青年同盟の組織活動の報告
-
- 1、 一九二九年十一月に於ける日本共産党及び同盟(コムソモール)の検挙以後引続く追求中に指導部を破壊され、党と連絡を断たれた同盟の活動。
- 当時指導部がやられ(月・日は不明)追求をのがれて残った東京地方委員一名によつて、工場細胞出の二人と共に東京地方委員会が作られた(月・日不明)。
- 東京地方委員会 東京地方オルグ 二 (労働者、インテリ出)
- 京浜地方オルグ 一 (労働者)
- [書き込み「総選挙戦が抜けてる」]
- 委員会の今年四月当時に於ける(東京市電ストライキ勃発当時)組織状況と活動
- 細胞五、準備会四(企業中の)、その他失業者組合(関東自由)中その他の組合の中にメンバーを持ち(数不明)、相当多数の学生が組織されてゐた。
- オルガン「共産青年」発行せず(中央部破壊後)
- 同盟のビラは出てゐた。 性質──一般的で抽象的、政治的状せいから明確な目的が指てきされてない。(例ヘバ、市電ストライキに出したビラ)
- 「無産青年」(月二回) 継続して発行された。その基金は主として定期的に学生から。六〇〇〇部──(一五〇〇が地方へ、四五〇〇の七割が学生へ、残り企業及組合の労働者へ)
- 武装デモ、武装ストライキの宣伝、煽動。
- 同盟は「無青」に頼り過ぎる、即ち同盟は、青年の日常利害の問題や、同盟独自の政治的問題によつて青年大衆を動員し、闘争させるための努力、その色々な形態を企業内の実践をもつて解決する努力すると云ふよりも、無青によるアジプロ、企業の内へ配布網を作り、「無青」の研究会を組織することによつて、「同盟員がつかめたり、青年労働者が同盟の影響下に来る」のだぐらひに思つてゐた。
- 同盟は、自分の経済的政治的スローガンをよく知つてる。然し、現在の非合法的な情せいの下で実さい、それが青年労働者大衆によつてホントウに戦はれ、大衆のものとなるものだと云ふ確信をもたない。革命的闘争を理解しえない合法主義だ。
-
- <32>だから最近の大ストライキの続発に当面しては、只少数の革命的分子によつてでなければ出来ない様な武装デモ武装ストライキのスローガンを出した。(武装デモをやった川崎の日石の同盟員六名の指導者達は、全日本にモハンを示すにてた)「武器を呉れ」呉れたら素バラシイ革命的行動をやるぞ! といつた風な極左的傾向が支配してゐた。
- (これと関れんして、某紡績工場の党細胞を同盟で指導しようとした事実すらあつた)
- 2、 同盟が、四月後半、同盟指導部の党と連絡を回復した。その後の活動。
- a) 東京市電ストライキに対する態度。指導部の唯一人だけが之に関係して、他は関係せず、状せいすら知らなかつた。之に関係したオルグはストライキ起るや、一般的な研究会などを開いてゐたといふやうな風であつた。従つて細胞その他のメンバーとはキハメテルーズな連絡(報告をうけるだけ)を取つてゐたに過ぎない。
- 社会民主主義者の指導に対して、組織的に対立して独自の闘争を進めようとせず、テットウてつび彼らに追従してゐた。
- そして、他の東京地方オルグは、党がストライキ指導のために、勢力を動員して、彼をも動員しようとしたとき、「今、自分の地区に細胞を作り始めた所だから」と云つて一応不服ですらあつた。
- 無青は、市電ストライキの武装ストライキをアジつてゐた。
- b) 党の指導下に同盟はストライキ中、如何なる活動をしたか?
- 第一に、各車庫に対して外部から働きかける特別アジプロ隊の編成と活動。主として学生、次いで自由労働者、組合活動分子。
- この宣でん隊ハ短刀を以って自衛して居り、数名のスパイ、ポリを倒してる。
- 第二、党のストライキ指導部直ぞくのカリア・レポーターの活動をした。
-
- <33>c) 市電ストライキ中、党指導なしに、京浜オルグによつて、五月一日、川崎の武装デモが遂行された。川崎に於ける日本石油工場の同盟細胞六名が先頭に日本金属労働組合の働手が動員され、凡そ二十名程のデモが遂行された。
- このために竹やり約百本が用意され、ピストル、ドスが用意された。このデモは、川崎の社会民主主義者指導のメーデーを革命的デモになす意企でやられ、指導者京浜オルグは、ピストルを以ってケイブホを倒し、六、七名と共につかまつた。その結果、日石の組織が破滅した。
- 三、市電ストライキ後、市電内への細胞組織運動をしつつ同盟の東京地方委員会は党に吸収され(一名、川崎事件でつかまる)且つ三つの細胞も亦党細胞に組織された。
- 現在の同盟中央部の組織が次いで行はれ、新たに党細胞より抜てきされた党員をキャップとして、旧同盟指導部員(インテリ出)を加へて作られ、党中央部によつて緊密に指導されるに至つた(六月始め)。
- 「共産青年」はまだ出ない。
- 第一に、同盟は自己批判を開始し、極左的傾向に対して強く戦ひつつあり、
- 第二に、企業に於ける青年労働者に対して青年らしい大衆的な組織活動方針を採用し同盟独自の政策による、青年労働者の動員の方向に正しく一歩をふんでゐる。
- 1、企業内のスポーツ団内の活動(日本に汎く在る)→「無青」にスポーツ欄を設ける。
- 2、特に市電ストライキで闘争力を見せた少年車掌、女車掌に対して青年委員会を組しきして自主的青年部確立の活動、等の組合青年部の活動。
- 3、移動劇場の利用、等。
- <34>第三、東京を五地区に分け。一地区五細胞合計二十五の細胞組織[書き込み「各大学に一つ」]を第一期活動として組織運動を開始した
- 一九三〇・七・一六 金子
以上の報告書について、改めて解説する必要はないであろう。風間丈吉の獄中手記(『「非常時」共産党』)や紺野与次郎の戦後の回想(「昭和初年の共産党」安藤良雄編著『昭和経済史への証言・上』毎日新聞社、1965年、「嵐のなかの青春」『前衛』1979年1月号)と重複する部分もあるが、党活動・組織実態・指導体制・財政等が詳細に赤裸々に語られており、この期の日本社会運動史を理解するための第一級一次資料であることは疑いない。
例えば当時の党員数は、警察資料とも党の宣伝資料とも異なる。1930年3月現在の党勢が、全国を合わせても党員100名以下というのは、戦前最高の大衆化を果たし学生・知識人・文化人に巨大な影響力を持った「非常時共産党」のイメージからして少なすぎるようにみえるが、獄中党員は数えられておらず、31年1月中央委員会再建後2か月の中央が把握している組織実態と考えると、案外正確な数字かもしれない。党勢が急速に伸びるのは、この報告直後のいわゆる「31年政治テーゼ草案」発表以後のことである。
党財政についても、同様のことが言える。「スパイM」(したがってその背後の警視庁特高課長毛利基)に握られていた当時の日本共産党財政についての日本側の記録には、立花隆『日本共産党の研究』(講談社文庫)が用いた「今泉手記」等があり、幹部の贅沢な生活や3万円の資金を獲得するための大森銀行事件がよく知られているが、この報告の書かれた1931年3月段階では、コミンテルンに月2000円の援助を要請する段階であったのかもしれない。事実、おそらくこの報告によりコミンテルンと連絡がつき、委員長風間丈吉が上海でヌーラン事件の直前に受け取った資金は、1500円だったという。
1930年5月「武装メーデー」から7月和歌の浦事件にいたる、「同志山岡」=田中清玄を委員長とし、佐野博、岩尾家定を指導部としたいわゆる「武装共産党」時代の党活動の批判的総括が書かれているが、「スパイM=松村」=飯塚盈延がどのようにしてこの期の共産党の最高指導者になりえたか、いわゆる「31年政治テーゼ草案」がどのように中央委員会レベルで準備されたかも、率直に語られている。河上肇が「スパイ」と疑った岩田義道の出獄が獄中指導部から中央委員会再建の指令を受けた「偽装転向」によるものだったこと、論争のあった野坂参三の入ソ目的が、正規の中央委員会決定による「在外中央委員」として「31年政治テーゼ草案」への戦略転換を伝えるためのコミンテルン派遣であったことも、この資料により明らかになった。報告が労働運動を中心に扱っており、この時期盛んであった学生・知識人・文化人等「インテリゲンチャ」の運動が相対的に軽く扱われているのも興味深い。
別置されていたファイル「f.495/op.127/d.288/3-17」の報告書には、いくつかの裏書きがある。判読不能なものもあるが、可能な限りで抜き書きすると、以下のようになる。紺野与次郎自身ないし他の日本共産党密使が、コミンテルンとの連絡方法をメモにしたものであると推定できる。
- 「公衆電話
- 銀座 壱千弐百三田 コーカン台(九時、六時)
- タスをヨンで下さい。(大倉[旭])
- 大倉さんですか?
- 松田ですが何か好話御座ませんか。
- ヒーコー食堂──地下室
- 黒イネクタイ
- ハンカチを<判読不能>出しておくこと
- 期限の日より二日と二時を十すること
- ペキンスカヤ 河田[=細木榛蔵] 吉田 竹内[=伊藤政之助]
- ジョンソン[=カール・ヤンソン] 長野[=蔵原惟人] 三浦 杉田
- 共産青年同盟オクルシコーム セクレタリー(ウアレン)
- 長野 三浦 杉田 河田 竹内」
-
- 「帰浦、会社員 主婦
- 三〇年 三十二年 海員について」
- 「本郷駒込宝来館
- 最初 女工 第二 木村 五月七日、面会
- 五月七日 東京新橋 <?>夜 度
- 八日 糸崎、下東、 宿泊
- 糸崎より門司、十日朝 オンド丸ニテ
- 門司大連 バイカル
- 十日午ゴ四時 十三日着 木村梅太郎 木村ゆき江
- 大連乃木式缶詰舎
- 十三日 大連発
- 十四午後 長春
- 十四夜中 ハルピン ベルサユー(ホテル)
- 十四日 ハルピン 宿泊 月、水、金 ハルピをたつこと
- 十五日 ハル発
- 十六日 ホク キーニ(ホテル) 三十年十月?」
-
- 「二月十一日 ウラ出発 栄丸
- 船川(不)
- 十七日 新ガタ──十七日上陸(新ガタで発見される)
- 新ガタ──十七日十八日宿泊
- 二月二十三日四 東京
- 上野書店店主──大倉
- 東京高等海員養成所に宿泊 二週間
- 三月七日頃
- 神戸行 二日宿泊 協和新報──(ウキ部)
- 神戸三月十五日、吉田栄吉
- 外一名戸田(オチル)加瀬スパイデアルと云つた
- 三月十日 新ガタ
- 三月十二日 東京
- 四月三日 クヅと面会
- 四月二十八日──
- 五月五日アリ、河田外一名 山岡、河田、アリョ、帰朝者<?>、金子 帰朝者<?>」
-
- 「タス──ルーム、二月 ワー
- 船員 樺<?>沢 カナダ通過
- 佐野 山岡 (田中清玄) 佐原
- 長野 赤坂(ポント) 支那<?>中」
-
- 「浅加丸 伊ム田等にアブラサシ
- 特高──徳下 スパイとの関係者
- <?>月九日」
-
ここで、この報告書を受け取った、モスクワ=コミンテルン側の事情も見てみよう。この「REPORT──JAPAN」ファイルの前後には、この報告とも関わるいくつかの文書がファイルされていた。
例えば、1931年8月21日付けで、「岡野」=野坂参三が国際労働者救援会(IAH)書記長ヴィリ・ミュンツェンベルグに宛てた、来るべきIAH大会に日本から代表を送るのは困難であるが、ドイツ共産党の国崎定洞に連絡すれば、同年帰国予定のドイツ共産党員「伊藤」=千田是也を日本共産党への連絡員として使える旨の英文連絡文書が入っている(f.495/op.127/g.196/266)。また、同じく「岡野」=野坂参三が、ウラジオストックの「同志人見」=山本懸蔵に宛てた、1931年8月21日及び22日の英文連絡文書があり、日本の地方選挙についての日本共産党への指示と、5月以降上海と東京での検挙のためウラジオストック経由での何の連絡もない、至急新しいアドレスを作れ、という指示も入っている(f.495/op.127/g.196/276)。
さらに、1931年11月26日に「岡野」=野坂参三がコミンテルン幹部会員東洋部担当オットー・クーシネンに宛てた長文の手紙があり(f.495/op.127/g.196/276)、そこで野坂は、風間丈吉起草の日本共産党「31年政治テーゼ草案」の重要部分を英訳したうえ、「本日私は日本共産党のテーゼを手に入れ、急いで読み通したが、それは大変よくできている[it
is very well
done]。ただそれは4月22日に起草されており、それ以来国際情勢とりわけ極東情勢は大きく変化しているから、われわれはその変化を考慮して読まなければならない」と肯定的に報告していた。すでに「満州事変」が勃発し、コミンテルン東洋部内では「31年政治テーゼ草案」の批判と「32年テーゼ」の作成が開始されていることに留意すると、これはかつて山本正美らが証言していたように、野坂参三が「32年テーゼ」直前まで直接プロレタリア革命戦略の立場にあったことを示している(加藤「『32年テーゼ』と山本正美の周辺」刊行委員会編『山本正美裁判記録・論文集』新泉社、1998年、参照)。
なお、1998年6月の加藤哲郎・藤井一行のモスクワ訪問のさい、これらと関係する新事実がロシア人研究者から提供された。それは、モスクワ東洋学研究所の著名な日本研究者ユーリー・ゲオルギエフが、加藤『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)についてロシア語雑誌『今日の日本』1998年4月号に書評を書き、加藤の研究を紹介しながら、ゲオルギエフ自身の資料探索にもとづき、野坂参三が日本からモスクワに派遣された直後の1931年5月15日、コミンテルン東洋書記局の議事録に、正式の日本代表を野坂参三にするという案と、当時ドイツ共産党日本語部責任者の「コン」=国崎定洞にするという二つの案が出され、結局国崎定洞案が否決され、野坂参三に決まった、と述べている。当時、片山潜は病気療養中で、コミンテルン東洋部(部長ミフ、部員ヤ・ヴォルク、サファロフ、マジャールら)内にも、日本の党から派遣された野坂参三ではなく、ドイツ共産党の国崎定洞らの活動を評価しモスクワに呼び寄せて日本共産党代表としようとした者がいたことを意味する。まだ国崎定洞のモスクワ亡命(1932年9月)前のことあった。
ここには、コミンテルン指導部と日本の共産主義者のイメージギャップが存在した。日本共産党にとってはコミンテルンは絶対であり、自分たちこそが日本革命の「唯一前衛」であったが、コミンテルンとソ連共産党の側からすれば、日本本土で活動する支部=日本共産党は、頼りにならないあぶなっかしい存在であり、ソ連共産党とソ連国家の利益に応じて、利用するないし無視しうる、一つの手兵にすぎなかった。じっさいコミンテルンの側は、日本本土で活動する日本共産党員ばかりでなく、中国・朝鮮の共産主義者、ウラジオストックや樺太経由での船員・漁民ルート、ドイツ、イギリス、アメリカ在住の日本人を含む共産主義者、さらには在日ソ連大使館やタス通信などをも用いて「対日工作」を行っていた。日本の警察や外務省の対応も、それに見合って国際的であり、対日本共産党にとどまらない共産主義対策をとっていた。後のゾルゲ事件に通じる対日情報工作も、20年代から繰り返されていた。日本共産党史は、こうした意味でも、すでに崩壊した20世紀国際共産主義運動史の一環なのである。
(追記)犬丸義一氏の批判に答える
先学犬丸義一氏が、本誌496号に「加藤哲郎氏への反論──論文『1922年9月の日本共産党綱領』について」を寄せている。本誌481/482号所載の拙稿に対する初めての批判で、歓迎すべきものであるが、残念ながら旧説のしがらみにとらわれ、「反論」になっていない。さしあたり本号の余白を用いて、簡単に触れておく。
高瀬清回想について、犬丸氏は「高瀬の回想は、野坂氏の伝記を書くためになされたものではない」と高瀬『日本共産党創立史話』刊行の経緯を記し、私の「野坂参三の伝記を書くために採用された高瀬清の回想」という表現に噛みついているが、いうまでもなく「採用された」とは、野坂『風雪のあゆみ』に採用され公認「党史」の典拠とされたという意味である。佐野学・鍋山貞親回想を含む1930年以降の全「神話」が、徳田球一予審訊問調書と共に、高瀬の証言・回想に由来することは、
拙稿でも言及した。
石神井大会「天皇制」論議について、犬丸氏は佐野学の30年1月12日予審訊問調書を挙げて加藤説は崩れるというが、これも氏が問題の所在を理解していない証左である。なぜなら、極東民族大会での日本代表団政綱が徳田調書で「天皇ノ廃止」と改竄され、岩村登志夫・川端正久氏の研究で虚構が暴かれた前歴がある。石神井大会については、つとに松尾尊允氏がアメリカで発見した議事録があり、今回私が紹介したコミンテルン宛報告書(本誌489号)がある。それらのどこにも「君主制廃止」が論じられた形跡はなく、石神井大会の18項目戦術合意は、いわゆる「22年綱領草案」の22項目要求とは大きく異なる。荒畑回想も「22年綱領草案」には言及していない。
だからこそ私は、「27年テーゼ」以前の史実について、3・15事件以後の獄中調書や回想に依拠することの危険を説き、徳田調書や市川正一『日本共産党闘争小史』の第一次共産党の記述は「神話」であると述べたのである。
したがって争点は、いわゆる「22年綱領草案」が旧ソ連でいつ作成され、日本共産党がいつ入手したかに帰着する。この点は、私の見たコミンテルン資料にも直接の典拠がなかったため、内容的に23年秋作成という推論に止めたが、和田春樹氏らがロシア現代史資料保存研究センターと共同で資料集を編纂中であり、当時のコミンテルン極東部・綱領委員会議事録等から、いずれ何らかの典拠が現れるであろう。
非合法時代の史実について、信頼できる文献資料が現れ、もっぱら回想に依拠した通説では説明がつかない問題が現れたからこそ、歴史の謙虚な再考が必要なのである。
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